「このままではこのまま」の自分に気づくこと
大学3年になると、ほとんどの東大生は学びの場が駒場キャンパスから本郷キャンパスへと移る。あの、安田講堂や赤門で有名なキャンパスだ。おかげで僕も、めでたく駒場寮の「麻雀部屋」を卒業し、本郷のアパートに住むようになった。
しかし、堕落した日々はその後も変わらない。麻雀からは離れたものの、今度は競馬の世界にハマっていったのだ。
毎週末渋谷にあるウインズ(場外馬券売り場)に通い、第1レースから最終レースまでかじりつく。そのうち週末の中央競馬だけでは飽き足らなくなり、平日開催の大井競馬場に出かけたり、地方競馬に遠征するようになる。いまとなっては笑い話だが、当時は馬で稼いで馬主になれたら最高だな、と半ば本気で思っていた。起業後に馬主となった僕だが、あれは金持ちの道楽みたいな話ではなく、学生時代からの夢でもあったのだ。
当時から僕は、就職してサラリーマンになる考えはなかった。
暗い顔で電車に乗る大人たちを見ていて、サラリーマンが楽しそうには思えなかったし、なにか別の生き方があるだろうと思っていた。
じゃあ、自分にどんな将来像があるのだろう?
僕が働いていた塾には、東大出身の先輩が何人もいた。大学院を出たけれど、オーバードクターでポストもなく、そのまま塾講師を続けている先輩。40歳になっても塾講師を続け、最終的に地方の私立高校に転職していった先輩。それなりの高給が保証され、生活に困ることはない。しかし、学生だった僕の目から見ても、人生の目標を見失ったような人たちばかりだった。
塾の休憩時間、教員室で漫画を読んでいた僕は、何気なく顔を上げて周囲を見渡した。先輩講師たちは、雑誌片手にコンビニ弁当を食べたり、ヘッドフォンステレオで音楽を聴いたり、次の授業の問題用紙をまとめたりしている。そこに漂う弛緩しきった空気と、その風景の一部となりかけている自分に、ゾッとしてしまった。
このまま塾講師を続けていたら、間違いなくこの色に染まってしまう。
ギャンブルに明け暮れ、大学を中退し、手近に稼げる塾講師を続け、気がつけば40歳の扉を叩く……。違う! 僕はこんな人生を送るために東京に出てきたわけじゃない。いますぐ変わらなきゃいけない。このままでは、一生「このまま」だ。
塾講師に危機感を抱いた僕は、新しいアルバイト先を探すために東大の学生課に向かった。そして一般企業からガテン系まで、掲示板に貼り出されたさまざまな求人情報を眺めていたところ、ある一枚の貼り紙に目が止まった。
〈プログラマー募集〉
……なるほど、その手があったか!
中学時代にシステム移植で稼いだ記憶がよみがえる。なるほど、これだったら自分の技術で勝負できる。本格的にパソコンに触るのは中学以来だから、現役とはいえない。それでも、マシン語をはじめとして基礎はみっちりできていたし、飲み込みの早さには自信がある。
明記されている時給は900円スタート。2500円の時給をもらっていた塾講師時代とは比較にならない金額だ。でも、これはお金の問題じゃないと自分に言い聞かせた。
アルバイト先は、衛星授業で有名な「東進ハイスクール」の関連会社だった。主な業務は、衛星授業の運営や教材開発。ここで自分の技術が十分に通用することを確認すると、今度は完全なコンピュータ系ベンチャー企業でのアルバイトをはじめた。
コンピュータ系だけに、きっとオタクだらけの地味な職場なのだろう。そう決め込んで面接に向かった僕は、大いに驚かされることになる。
扉を開けた先のフロアは、まるでデザイン事務所のようなオフィスだったのだ。
ゆとりをもって配置された天然木のデスクと、座り心地のいいオフィスチェア。観葉植物やインテリアも、シンプルでセンスのいいものばかりだ。そして働く人たちの身なりや持ち物も、みんなオシャレだった。オタクっぽい人がほとんど見当たらず、「これが本当にコンピュータ系の会社なのか?」と心配になるほどだ。
彼らが軒並みオシャレだった理由は、すぐに解き明かされる。みんなの机に置かれていたのは、マッキントッシュ(Mac)だったのである。