父と母のいない風景
都心の繁華街が賑わいを見せはじめる午後9時。長野刑務所は、ひっそりと消灯時間を迎える。建物全体がしんと静まりかえり、ときおり聞こえるのは誰かが咳をする音くらいだ。今日もよく働いた。心地よい疲労感に包まれながら、布団に横たわって目を閉じる。すべての疲れを癒してくれる布団の感触は、ある人の背中に似ていた。人生でいちばん最初の記憶に残る、ある人の背中だ。記憶をさかのぼって思い出す。
浮かんでくるのは、曾おじいちゃんにおんぶされている風景だ。
福岡県の片田舎で、農業を営んでいた曾祖父の家。そこへと向かう長い坂道の途中、曾おじいちゃんは思いついたように僕をおんぶしてくれた。僕の年齢は2歳くらい。どんな声をかけてくれたのかは、もう覚えていない。
おそらくその日、曾祖父の家には父も母もいたのだと思う。しかし、僕の記憶から彼らの姿は消えてしまっている。覚えているのは背中の温もりと、夏の暑い陽差し、そして見渡すかぎりに広がる田畑の緑だけだ。言葉さえおぼつかない僕は、完全な「ゼロ」だった。
自分の家が周りと違うことに気がついたのは、小学生のころだった。
多くの小学生が胸を躍らせ、気恥ずかしさと緊張感の中で迎える恒例行事、授業参観。浮ついた友達たちをよそ目に、僕は毎年「早く終わらないかな」と退屈していた。緊張したりワクワクしたりする要素なんか、どこにもなかった。
なぜなら僕の両親は、一度として授業参観に来なかったからだ。
愛されていなかったのかというと、それは違うと思う。いわゆるネグレクト(育児放棄)だったわけではない。共働きだった両親にとって、授業参観は仕事を休んでまで参加するイベントではなかった。「自分の仕事」と「子どもの授業参観」とを天秤にかけたとき、仕事のほうを優先すべきだと思った。それだけのことだ。
だから僕は、両親がこなくて寂しいと思ったり、友達を見て羨ましいと思ったりしないよう、自分に言い聞かせていた。うちの親はそういう親なのだし、堀江家とはそういう家なのだ。
1972年10月29日、僕は福岡県南部の山間部に位置する八女市に、堀江家の長男として生まれた。以来、兄弟のいないひとりっ子として、両親と父方の祖母を含めた4人で暮らすこととなる。
父は、典型的な昭和のサラリーマン。日産ディーゼル福岡販売というトラック販売会社の、佐賀支店に勤めていた。具体的にどんな仕事をしていたのかは、よくわからない。家庭で仕事の話をすることはほとんどなかった。地元の高校を卒業し、そのまま地元の企業に就職して、ずっと同じ会社に勤務する。定年まで勤め上げることはなく、最後は肩たたきにあって早期退職した人だ。
お酒に弱く、趣味は野球観戦。大好きな巨人が負けると、途端に機嫌が悪くなる。こっちがどんなに疲れていても、肩を揉めだの、背中を踏めだの、大きな声で命令してくる。不服そうな素振りを見せると、すぐに手が出た。
そんな父の口癖は、「せからしか!」だった。福岡の言葉で「うるさい」とか「やかましい」といった意味の方言だ。理屈っぽい僕が少しでも反論しようものなら、この決まり文句とともに平手打ちが飛んでくる。怒りのあまり、そのまま庭の木に縛りつけられたこともあった。
では、父が暴力に明け暮れる頑固者だったかというと、決してそうではない。お酒を飲まないときの父は、物静かで穏やかな人だった。特に、中学生になって僕が身長で追い越してからは、手を上げることもなくなった。小学生のころには年に一度の海水浴を恒例にしていたし、遊園地に連れて行ってくれたこともあった。その意味でいうと、ごく普通の父親だ。
しかし、ひとつだけ「普通」と違ったことがある。
父と出かける先に、母の姿がなかったことだ。
海に行くのも、遊園地に行くのも、いつも父と僕の二人だけだった。そしてどういうわけだか僕は、母がいないのを当たり前のこととして受け止めていた。少年時代の子どもらしい思い出に、母の姿はほとんどない。
酔っ払った父の「せからしか!」なんて、どうってことなかった。堀江家の中でもっとも気性が激しかったのは、間違いなく母だった。
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