『こころ』のアンチテーゼとしての物語
肉体と魂の相克の物語を日本近代文学の文脈で見ると、『めぞん一刻』は、この問題を扱った漱石の『こころ』への微妙なアンチテーゼであることがわかる。
『こころ』では、「先生」と呼ばれる主人公の男は、Kという親友と若いころひとりの女を争い、その結果、彼は勝利し、負けたKは自殺した。死者と残された男女はどうなったか。『こころ』の終章近くのシーンでこう描かれている。この光景が『めぞん一刻』のエンディングとどれほど似ているか注意してみるとよい。
結婚した時お嬢さんが、—— もうお嬢さんではありませんから、妻(さい)といいます。—— 妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。私は意味もなくただぎょっとしました。どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。妻は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。私は何事も知らない妻の顔をしけじけ眺めていましたが、妻からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。
私は妻の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。私は新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。妻はその前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。妻は定めて私といっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。
『こころ』が『めぞん一刻』と類似の物語であることは明白だろう。また、五代が教育実習で扱っているのは、ずばり漱石のこの作品だった。
決定的な違いもある。『めぞん一刻』は生の物語であるのに対して、『こころ』は死の物語である。『こころ』では、女の思いとしては、生き残ったこの男女に死が統合されたものとして祝福しているが、男の思いのなかに祝福はない。それどころか、男の思いにはもはや愛情すらない。『こころ』の物語は、愛情の不在の原因を、親友を死に至らしめた秘密を女から隠したことに帰着させている。人間の本質的な孤独を描いているとも読める。
この構造に『めぞん一刻』をアンチテーゼとして置くと、『こころ』の問題点が炙り出される。『こころ』では肉の欲望は不在だが、『めぞん一刻』の五代が響子に惹かれたのは、肉の欲望である。美人で肉体美に溢れていたからである。その後、恋愛の過程という錬金術(アルケミー)でさまざまに変貌し魂を純化してもなお、肉の欲望はこの『めぞん一刻』の大きな基調となっている。そして魂を苦しめていたはずの肉の欲望は逆説的に死の統合をもたらすことになる。
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