勇気を出した分だけ人生は変わる、と思っている。
これは綺麗事とか、名言とか、まったくもってそういうことではなく、ごく物理的な意味合いにおいて「だってそれはそうでしょう、仕組み的にそうじゃん」と、真顔で恥ずかしげもなく誰に対しても堂々と言えるほどにそう思っている。
なぜなら、何かをやるときに勇気が必要な場合、そこに必要な勇気の量は、未来への影響力に比例しているからだ。
良くも悪くも、未来を変えてしまう可能性があるからこそ、そのことをよく分かっているからこそ、人はそのことを実行するのに恐怖や不安や心配を抱くわけで、それらの感情を押し切る時に必要になるのが勇気だ。
つまり、使う勇気の量とは、人生が動く量だ。
「下田美咲という乗り物は、とても不便だ」
私がそのことをハッキリと言葉にできるほどにそうと思うようになったのは、20歳を少し過ぎた頃のことだった。13歳で芸能界に入り、その時から自分の人生とものすごく向き合うようになって、ことあるごとに勇気を振り絞ってきた。その積み重ねで、だんだんと気が付いたことだった。
そしていざ、ハッキリと言葉にできるほどに「ああそうか、勇気を出した分だけ人生って変わるんだ。使う勇気の量は、人生が動く量なんだ」と思うようになると、「それって便利だな。つまり、日頃からひたすら勇気を使いまくれば、まるで別の人生が手に入るってことじゃん。勇気を出しまくった私って、そうじゃない私とは、もはや別人じゃん。この仕組みをもっと活かしたいぞ」と考えるようになった。
当時の私は、まだまだ自分の人生のことを気に入っておらず、自分のことが苦手だったし、自分として生きることに不快感しかなかった。「下田美咲という乗り物は、とても不便だ」と、よく思っていた。
声は低いし、ストレスに弱いし、演技はできないし、媚も売れないし、お世辞も言えないし、実家は貧乏だし、親族は厄介だし、なんて生きづらいのだろう、ということばかり考えていて、16歳から18歳にかけては尋常じゃなく暗い言葉が並ぶ歌詞のオリジナルソングを量産していた(作曲にハマっていた。ストレスのはけ口だったため、作っても作っても新曲が溢れ出てきて、短い期間に200曲ほど作った)。
そんな中で、ポンと閃いたのが「勇気を使いまくれば、まるで別の人生が手に入るかもしれない」というアイディアだった。
ガチで大胆不敵なメンタルを育てるために
それをやるのは勇気が要る……と思った時には必ず「じゃあ実行しよう!!勇気を使おう!!」という選択をすることを自分に義務付けていけば、数年後には、まるで別の自分になれるような気がした。
そうと決めた私は「勇気を使いまくって生きていくにあたり、一番大きな勇気が要ることを、まず先に一通りやっておきたいな」と思った。
というのも、私は自分について「ぜんぜん勇気が出せない女だ」という自覚があった。先ほど、振り絞ってきたとは書いたけれど、それはあくまで自分なりにであって、人からは「え、そんなことになんで勇気が要るの?!」と言われるようなことに対して、いちいち勇気を必要とするタイプの人間だった。
そこで私は「まず最初に特大の勇気を使う経験を何度かコンスタントに行って、勇気を出すってこと自体に自分を慣れさせてしまえば(感覚を麻痺させれば)、その後はポンポンと勇気を出せるようになるんじゃないか。むしろ、ある程度のことまでは勇気も使わないでやれちゃうくらいに、ガチで大胆不敵なメンタルが育つのではないか」という仮説を立てた。
そうして「特大の勇気を使う経験って何だろう」と考えていくと、いくつかのアイディアが生まれた。
■スカイダイビングをする(私は高所が苦手)
■バンジージャンプをする
■好きな人に告白をする
■逆ナンをする
世の中の人たちってどうやって実行してるの…?!
前回、人生初の告白をした話を書いたけれど、あの時の挑戦には実はこんな意味合いも含まれていた。「順を追ってみたい」「だってそれって最高の前戯!」というのも本当に動機の1つではあったのだけど、それ以上のモチベーションだったのは「特大の勇気を使う経験をしてみたい」ということであり、あれこれと考えた結果として、もっとも勇気が必要そうに思えたのが"好きな人への告白"だった。
そこからの私は、実際に上記のミッションを全て実行した。案の定どれもとてつもない勇気を要した。本当にとんでもなかった。楽勝だったものなど何もない。
しかしそんな中でも、やっぱり愛の告白というのは、史上最強で最大の勇気を必要とする行為だった。あれは何度思い出してもとんでもない。