ボードレールに影響を受けた少年を描く『惡の華』
ブンガクというと何よりもアンチヒューマンなのだと、酒を浴びて女を殴って少女の片腕を持ち帰り、異常なまでの浪費の末に破滅してこそこれブンガクなのだという思い込みの時代を生きていなくとも、破滅的な生き方への傾倒というのは確かにあって、特に文化芸術の分野ではかつてはそういったものこそホンモノみたいな印象は強かったし、70年代の香り冷めきらぬ時代に生まれた私も含めて今でも半ばそんな価値観を拭いきれない者は結構多い。
多くの文学少女は太宰やサガンや安吾やボードレールやドグラ・マグラやねこぢるを読んで思春期を過ごしているし、ヒルズで去年やってたバスキア展は信じられないくらい混んでいたし、カート・コバーンやジミヘンやジム・モリソンや尾崎やシド・ヴィシャスや(以下略)など夭折した音楽家も伝説化しやすい。甲子園など若さを捧げるに足る目標があるわけでもなく、早くから頻繁にセックスにありつくモテもなく、運動や流行やオカネなどとそんなに相性がいいわけでもない多くの若者が一度は、こういった刹那的で退廃的な匂いに憧れ、自分も実はそっち側なんじゃないかという淡い勘違いを重ね、若さ特有の肥大した自意識にまみれて世や親や学校を憂いて無礼な態度を取るものだし、その、伊集院光が中学二年生という病と名付けたような事態は、パラパライベントへ行くときにヤプーとかバタイユとかをポケットに入れてるワタシってフクザツ、なんて思いながら赤面の若年期を過ごした私は大いに身に覚えがある。
ちなみに鈴木涼美というペンネームは本名を文字って鈴木いづみをオマージュしたものなので、自分の凡庸さを実感せざるを得ない年齢になっても、完全に治癒したわけではない。
さてしかし残念なことに27歳で死ぬわけにもいかなかった凡人の私は、凡人なりに逞しく図太く生きていかねばいけないので、昨年「漫画の『惡の華』が映画になったんだよ」と聞いた時、ボードレールの『悪の華』を愛読する少年を描いた押見修造の漫画『惡の華』の方ではなく、完全に「特命係長」シリーズの柳沢きみお作『悪の花』の方だと勘違いした。ちなみに柳沢漫画の方は特にボードレールは出てこないが、大手芸能プロの敏腕社員だった男が大金と引き換えにタレントに薬物をばら撒いていたミュージシャンの罪を被せられて実刑を受け、1年半の刑期で出所してくるところから始まる。2億円で仕事も恋人も人生の希望もふいにしてしまって生きる気も失っていたが、たまたま道で拾った何の才能も個性もない女をプロデュースして売り出しているうちに再び芸能魂に目覚め、荒々しく毒々しい芸能界で返り咲こうとするが、かつての恋人を奪った元上司やヤクザなどが立ちはだかる。
エイベックス松浦会長の文春記事
ちょこちょこ何かとリンクするようなキーワードがあるが、そういえば先日「クリエイティブに専念」するためCEO退任が発表されたエイベックス創業者の音楽プロデューサーは、今年センテンススプリング・オンラインで大麻使用疑惑などが報じられた。元社員の「A子さん」の告発という形で書かれた記事の信憑性を検証する術を私たちは持たないが、幾度も所属タレントの薬物トラブルや自身の大麻疑惑が報道されてきただけに、彼が元社員とハワイで今年最初の悪の華を二人寄り添って眺めていても、「ありそうな話だけどそれほど意外性がない」と感じた人が多いのか、それほど話題にはなっていない。
日本では違法薬物である大麻に誘われたという「A子さん」も怖かったろうし愚かな部分もあったろうが、少なくともどこまでもカリスマ社長の意志の伝達役でしかない、無頼を真似ても様にならない「天才」な編集者などに、凡庸そのものな口説き文句でパワハラを受けるよりは、目眩く時間のように聞こえる。
ただ、記事で私が面白かったのは、A子さんが語る元CEOの「クスリ周期」の話で、彼女曰く毎年9月の音楽イベント「ウルトラ」からハメを外し、誕生日がある10月はパーティーナイトが続き、年末年始の恒例のハワイまで日常的に違法薬物を摂取する日々が続く。しかし年が明けるとその悪習を断ち、6月の株主総会前はとても神経質で、そして夏が過ぎ風あざみ、またウルトラシーズンになるのだという。
これが本当だとしたら、さすが27歳で繊細な音を残して死んでいったミュージシャンたちとは違い、レコード店アルバイトから巨大グループ企業を興してJ-POPの頂点に座り、ミリオンヒットを飛ばしまくった人だけに、破滅的な遊び方も極めてネオリベっぽいと言うか、悪の華を用法用量を守って食べ続け、しかしマクロビもやってるみたいな、よく言えばバランスをとったように見える、悪く言えば繊細さと一般常識の両方が欠けた、俗世と相性の良いズル賢さに溢れている。
話題の『M 愛すべき人がいて』に思うこと
押見修造の方の『惡の華』には、平凡で退屈な町から出ることができずに、しかし古本屋に通って日夜ボードレールや萩原朔太郎を読んで、この町の凡人たちと俺は違うと思っているような凡庸な中学二年生の少年が描かれる。くだらない会話とパチンコ屋しかない町は山に囲まれていて、山を越えて「向こう側」に行こうという画策が、序盤のハイライトである。そしてネオリベ系の不良おじさんはいともたやすく向こう側と退屈な俗世を行き来し、どちらも飼い慣らして見える存在ではある。ただし、そこに通行切符として介在するのが日本では違法な大麻だとしたら、何のオリジナリティもなく退屈なのだけど。
『惡の華』では中学時代の少年の周囲に二人の少女が登場する。片方は、友達も多く、美人でクラスのマドンナ的存在だった女で、もう一人は変人として孤立しており、少年の弱みを握って露悪的な命令を下してくる女。当初は変人を怖がって避けたがり、美人のマドンナをミューズとして崇めていた少年だったが、ひょんなことから彼女と近づく運びとなると、その幸運をふいにして、世の中を「クソムシ」と蔑む変人の方に傾く。美人マドンナを脳内で都合よくミューズにしていた頃は、彼女の体操服を触るだけで興奮していたのだが、彼女は彼の妄想の中に収まるような都合の良い存在ではなく、生身の性的な女で、ずっと強く、またどんどん変化していく。彼女が変化していけばいくほど少年はかつての憧れのミューズである彼女から逃げて、変人女との悪の道を辿って「向こう側」を目指そうとする。
マックス松浦というと私にとっては90年代J-POP全盛期の大物プロデューサーで私の愛するTKの保釈金を払ってくれたお金持ちというイメージで、去年まではおそらく同じように裏方の大物というイメージ以上のものを持っていなかった人は多いのではないか。まして一応裏方のプロデュース業をする彼の顔など、そんなに気にしている人はいなかった。
しかし、昨年、平成の歌姫あゆと彼との関係を元に「事実を元にしたフィクション」というあゆの直筆メッセージ付きで出版された「M 愛すべき人がいて」を読み、あゆと彼との関係を知り、デビュー初期の数多くのあゆの歌詞を聴きながら、まじまじと彼の顔を拝見した人も結構いるはず。発売当初、Twitterなど見ると「大好きな曲、長瀬のことだと思ってたらサル顔の小さいおじさんでショック」的な勝手な妄想女子たちの書き込みが散見された。
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