十四
明治二年(一八六九)七月、政府の官制改革が行われた。従来の行政官が太政官と改められ、太政大臣、左右大臣、大納言、さらに数人の参議というポストを設け、それを国家の最高意思決定機関としようというのだ。
これにより大隈の所属する会計官は大蔵省となり、大隈は大蔵大輔となった。これは会計官副知事と同じポストで、とくに出世したわけではなかったが、翌月には民部大輔を兼任することになる。
この頃、政府内でも派閥ができ始めていた。その頂点には、長州藩閥を代表する木戸孝允と薩摩藩閥を代表する大久保利通がいた。近代化を迅速に進めるべきという木戸に対し、大久保は漸進的に進めるべきだと主張していた。
木戸と大久保は版籍奉還では一致したが、これ以後も兵制改革や官制改革では一致せず、明治十年(一八七七)の木戸の死まで政敵として対立し続けた。
一方、佐賀藩閥は有名無実化しており、副島と大木は大久保派に、大隈は木戸派に属していた。ちなみに閑叟は病もあって政局に無関心で、江藤は佐賀藩の藩政改革を担当しているので、中央政治には関与していない。また島義勇は、蝦夷開拓御用掛として蝦夷地に赴任している。
この官制改革で、木戸は「改革派の旗手」と謳われる大隈を参議に推挙したが、岩倉や三条の反対で却下された。むろんその背後に、大久保がいるのは言うまでもない。
結局、太政大臣と左大臣のポストを空けたまま、右大臣に岩倉、大納言に三条と徳大寺、参議に副島と長州藩出身の前原一誠が就任した。
副島は元来保守的で、前原は人間的に木戸と反りが合わない。しかも三条や岩倉は、繊細で神経質な木戸よりも豪胆で厳格な大久保に頼るところが大だった。
その一方で大隈は木戸派とさらに接近し、木戸の計らいで、伊藤や井上らと共に実務の中枢を担うようになっていった。これにより廃藩置県への道筋も見えてきたが、そのためにも大隈には、是が非でもやらねばならないことがあった。鉄道の敷設である。
明治二年(一八六九)十一月十日、太政官会議の場には三条、岩倉、徳大寺、大久保、広沢(真臣)、副島、前原らが勢ぞろいしていた。ちなみに木戸は大久保との政治的駆け引きから自ら参議にならず、盟友の広沢を参議に就けていた。
広沢と同時に大久保も参議の座を占めたので、双方にとって互角の人事となった。
また大隈の上役にあたる民部卿兼大蔵卿の伊達宗城と大蔵少輔兼民部少輔の伊藤博文も同席したが、説明はすべて大隈に託された。
大隈は一つ咳払いすると、朗々たる口調で発表を始めた。
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