「その口惜しさを仕事にぶつけろ」|百折不撓(十) 2

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

 やがて貨一郎がやってきた。

「何の御用で」

「お前は明日から来なくていい」

「へっ、またどうして」

「働きが悪いし、腕も悪いので馘首とする」

「旦那、いくらなんでもそんな。私は政府から紹介されて、こちらに来たんですよ」

 大隈は珍しい生き物でも見るような顔をすると、当たり前のように言った。

「俺が政府だ」

「馬鹿言っちゃいけねえ。冗談はやめて下さいよ」

「そうかい。じゃ、俺が政府じゃないという者を連れてこられるか」

 貨一郎が言葉に詰まる。

「今日までの給金はきちんと払ってやる。だが明日からは来なくていい」

「分かったよ」

 突然、貨一郎の口調が変わる。

「こんなところになんか来るもんか。勝手にしろ!」

「それでよい。二度と顔を出すな」

「ああ、二度と来るものか。おい、綾子、行くぞ」

 その言葉に、綾子が反射的に立ち上がる。

「そうだ。言い忘れた。綾子さんは置いていけ」

「何だと。どういうことだ」

「綾子さんはお前と離縁することになった。お前の家には、もう戻らない。後で人力車を送るので、綾子さんの荷物を積んで送り返せ」

「ちょっと、ちょっと待ってくれよ。綾子は俺の女房だ。いくら政府の高官だからといって、他人の女房を盗むのは間違っている」

「それはそうだ。では、綾子さんの意向を聞こう」

 大隈がゆっくり綾子の方を向く。

「綾子さん、あんたの人生だ。どちらか選びなさい」

 貨一郎が急に媚びを売り始める。

「綾子、すまなかった。一緒に帰ろう」

 綾子は俯いたまま立ち上がらない。

「ま、まさか、てめえ—」

「綾子さん、ここは、はっきりさせた方がよい。勇気をもって告げてやれ」

 綾子は顔を上げると、はっきりと言った。

「貨一郎さん、短い間でしたが、お世話になりました。私はあなた様と離縁することにしました。このまま家には帰りません」

「な、何だと—」

「聞いた通りだ」

「この野郎。お前が政府の高官だか何だか知らねえが、俺の顔に泥を塗りやがったな!」

「そういう考えだからいけない。お前は綾子さんのことなど微塵も考えず、自分の面子だけを気にしていたんだ」

「何だと—。よし、分かった。では勝負しろ!」

「勝負か。それはいい」

 大隈の顔が明るくなる。

「やめて下さい」

「綾子さん、心配は要らない。これまで殴られた分を返してやる」

 大隈はシャツ姿になると、サスペンダーを左右に外した。

「やるってのか。いい度胸だ」

「最後に聞く。恥の上塗りになってしまうが、それでもよいか」

「けっ、何言ってやがる!」

「分かった。どうやら覚悟はできているようだな」

 大隈が庭に下りると、大工たちが集まってきた。

 小柄な貨一郎は相撲取りのように構えて、長身の大隈の足に取り付こうとしている。

 周囲から歓声が上がる。それに押されるように貨一郎が組み付いてきた。

 大隈は張り手で貨一郎の顔を払うと、思い切り横腹を蹴った。

 転倒した貨一郎は「この野郎!」と喚きながら再び飛び掛かってきた。だが大柄な上に喧嘩慣れした大隈の敵ではない。何度も殴られ、蹴られ、しまいには倒れたまま泣き出した。

「口惜しいよう」

 貨一郎が配下に助け起こされる。

「貨一郎よ、その口惜しさを仕事にぶつけろ。そのくらいの意気込みがないと、お前のように成人してから大工修行を積んだ者は淘汰される」

 配下に肩を貸されて、貨一郎がその場を後にした。


 去り行く貨一郎の背に、大隈が声を掛ける。

「おい、貨一郎、人力車に綾子さんの荷を積むことを忘れるな。ごまかしたら、ただでは済まさんぞ」

 それが聞こえたのかどうかは分からないが、貨一郎は口惜しさに咽び泣きながら去っていった。

 それを見た大隈は少し同情したが、すぐに当然の報いだと思い直した。

 —これが弱い者に手を上げる男の末路だ。

「ほかの者たちは仕事を続けてくれ」

 大隈の言葉を聞いた大工たちは、それぞれの持ち場に戻っていった。

「綾子さん」と呼び掛けつつ、大隈が広縁から居間に上がる。

 一部始終を見ていた綾子の手は震えていた。

「もう恐れることはない」

 大隈が手を握ると、綾子の震えは収まった。

「どうやらあんたは、わしの女房に収まることになった。つまりこの家は、あんたのものでもある」

「えっ」

 驚いたように綾子が格天井を見回す。

「戸川様の御屋敷が—」

「そうだ。今この時から、あんたにこの家を切り盛りしてもらう」

「は、はい」

 一瞬、戸惑ったものの、綾子が力強くうなずいた。

 —この女なら添い遂げられる。

 なぜか大隈には確信があった。

 その後、親しい者だけ呼んで簡素な式を挙げた二人は、晴れて夫婦になった。

<次回は7月2日(木)更新です>

コルク

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

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