天保五年、次郎長十五歳。家の金を持ち出して西走。浜松で相場を張って巨利を得て、実家・甲田屋にこれを持ち帰った。
これ以降、次郎長を跡継ぎにと思いながらも、若い後妻、直の意見を容れることが多かった養父・次郎八は次郎長の意見を聞いて経営方針を定めることも増え、次郎長は心を入れ替えて店の仕事に精を出すようになった。
となるとおもしろくないのは直で、次郎長がときおり目を通すから以前のように店の金をくすねることもできず、したがって以前していたように贔屓の役者に金を遣って遊ぶ、というようなこともできなくなり、できることと言えば餅やあおさのやけ食い程度で、直の目方は漸増し始めていた。
このままいけば或いは次郎長はやくざになることもなく、商人として生涯を終えたかも知れない。ところが翌天保六年、
「なんか、ここのところ身体がだるい」
と言っていた次郎八が、そのまま患いつき、いろんな医者に診て貰ったが一向よくならず、そうこうするうちにみるみる悪くなって、今日か明日か、という有り様と成り果てた。
次郎八が日に日に弱っていくのと裏腹に、直はまた生き生きと輝いて、張り切って店の者に指示して、次郎八の看病に当たっていたが、これにいたって漸く次郎八は直の本心に気がついたようで、ある日、次郎八を見舞った医者が帰った後、苦しい息をしながら、店の者に言った。
「これ、伊八」
「へい、なんでございます」
「東庵先生はなんと仰った」
「へい、いまは苦しいかも知れないがきっとよくなる、とかように」
「そりゃ、嘘だ」
「嘘じゃございません」
「いや、嘘だ。自分の身体のことだ。俺が一番わかっている。俺はもうダメだ」
「どうか、そのようなことを仰いませんように」
「こりゃ済まなかった。おまえにそんなことを言っても仕方ないな。これ、泣くでない。ときに直はおるか」
「ええっと、いま、東庵先生をお送りして、そのついでにそこまで用足しに出掛けたようですが、まだいくらもいかないでしょう、丁稚を呼びにやらせましょうか」
「いや、いい。留守が幸いだ。次郎長はおるか」
「店にいらっしゃいます」
「次郎長を呼べ」
「畏まってございます」
と、直の留守を確かめて次郎長を呼んだ。
次郎長はすぐにやってくる。人払いをした上で次郎八は言った。
「長五郎、よく聞け。これは俺の遺言だ」
「親爺どの。遺言だなんて、気の弱いことを言うでねぇ。病は気からって言うぜ」
「ああ、そうだ。病は気からだ。しかしな、人はいつか死ぬんだ。だから生きてるうちにおめぇに言っておきたいことがあるんだ。聞いてくれるか」
「ああ、それなら聞くよ。なんだい。言ってみな」
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