五
九月八日、慶応四年(一八六八)は明治元年と改まり、いよいよ新時代の幕開けとなった。
この記念すべき改元の日を、大隈は長崎行きの船中で迎えた。
——明治か。どのような時代になるか。いや、どのような時代にするかだ。
この時、大隈は、自分がこの国の舵取りの一人になっていることを実感した。
——やるべきことは山積している。
長崎へと向かう船中で、大隈はこれまでのことを考えていた。陸の上にいると、多忙という魔に取り付かれ、客観的に物事を考える機会を失ってしまう。だがこの時は、たまたま読むべき本を忘れ、同じ船に知己もいなかったので、じっくりと過去を振り返ることができた。
——考えてみれば、あっという間だったな。
大隈の幕末は挫折と失望にまみれていた。とにかく佐賀藩を動かそうと、何度も鍋島閑叟に掛け合ったが、大隈の焦りとは裏腹に、閑叟の動きは鈍く、佐賀藩が集団として、維新の果実を手にすることはできなかった。
それでも佐賀藩には強力な軍事力があった。薩長両藩や京都の公家たちは、佐賀藩の軍事力なくして旧幕府との戦いに勝ち抜ける自信はなかった。そこに付け込んだ江藤と副島により、佐賀藩は「第四の藩」、すなわち維新の功績の度合いに応じ、誰とはなしに呼び始めた「薩長土肥」に名を連ねることができた。
佐賀藩がその近代化された軍事力で尊重される一方、大隈は個人として頭角を現すことに成功した。一時は情熱に任せて脱藩し、また武雄温泉で閑叟に談判するも、佐賀藩は積極的に動かず、大隈は挫折を味わった。
しかしその度胸と英語力、さらに緻密な仕事ぶりや無類の根気によって薩長土三藩の顕官たちから評価され、個人として這い上がることができた。
そこで大隈は覚った。
——これまでのわしは、藩という集団で這い上がらねばならないと思ってきた。つまり集団を動かさねばならないという思いが、個が能力を発揮する足枷となっていたのだ。だが何のことはない。維新で藩という枠組みが揺らぎ始めたことで、個が重視されるようになり、わしは世に出る機会を得た。
つまり大隈は、その仕事ぶりを薩長土三藩の顕官たちから評価されることで、いち早く藩という枠組みを取っ払うことができ、個の時代に突入できたのだ。
——だがこの国では、いまだ既成の考えから脱せられない者が大多数だ。それを気づかせるには何が大切なのか。
気づくと長崎港が近づいてきた。佐賀藩が台場を築いた伊王島が左手に見えると、続いて神ノ島も見えてくる。そこには、いまだ見張り役が任に就いているはずだが、なぜか過去の遺物のように思えてきた。
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