空閑の言葉が脳裏によみがえる。
「大望を持ちながらも、世に何も問えずに死んでしまっては、何のための人生か分からぬ」
また『葉隠』も「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」と言いながら、「主君の役に立たずに死んだら犬死にだ」と言っている。一見矛盾しているように聞こえるが、『葉隠』は死を肯定しているのではなく、死のぎりぎりまで主君のために働き、もはや死しかないとなった時、「死を恐れず、潔く最期を飾れ」と言いたいのだ。
久米がため息交じりに言う。
「で、どうします。島さんなどは『義祭同盟の秘策を他藩に漏らした大隈を斬る』と息巻いておりますぞ」
島とは島義勇のことだ。
「知ったことか。斬りたければ斬れ」
大隈は内戦が勃発する前に大政を奉還させるべく、土佐藩に功を取られる危険を冒した。それが裏目に出たからと言って、何も手を打たなかった島に文句を言われる筋合いはない。
「それでは、そろそろご無礼仕ります」
久米が帰り支度を始める。
「もう帰るのか」
「帰りますよ。誰かが斬りに来たら、私も巻き添えを食らうかもしれませんからね」
「冷たい奴だな」
「冷たいも何も、とばっちりは御免ですよ」
久米が階段を下りようとした時だった。表口で「大隈はおるか!」という胴間声が轟いた。
「どうやら、遅かったようですね」
「そなたは屋根を伝って逃げろ」
「まさか——。そんなことをしたら、庭に下りたところで、いきり立った連中に斬られますよ」
それはあり得ないことではない。
「では、ここにいろ」と言って久米を押しのけた大隈は、階段をゆっくりと下りた。あえて両刀は置いてきた。そんなものを手挟んでいる方が、殺気立った相手に斬られるからだ。
身づくろいし直すと、一つ咳払いして表口に出た。提灯の灯に照らされ、島義勇の険しい顔が見える。その周囲には、島の弟の重松基右衛門を中心にした過激な連中が十人ばかりいる。
——やはり島さんか。
大隈はため息をついた。
義祭同盟きっての武闘派の島義勇は、枝吉神陽と従兄弟の上に同年齢で副将格だった。大隈よりも十七歳上なので分別盛りのはずだが、長崎砲台の勤番所隊長や観光丸艦長などの職を経て、海の男の荒っぽさをも身に付けていた。
「この口舌の徒め!」
いかつい島の顔に朱が差しているので、不動明王のように見える。
「まあ、落ち着いて下さい」
「これが落ち着いていられるか。そなたがわれらの秘策をべらべらしゃべるから、土佐藩に功を持っていかれたではないか!」
「いかにも土佐藩に秘策を漏らしたのは私です。しかし土佐藩を動かさないことには、薩摩藩に主導権を握られ、ずるずると内戦の泥沼にはまるところでした」
大隈らは内戦が始まれば、二年や三年では終わらないと思っていた。その間に両陣営は傷つき疲弊し、さらに外国商人から武器を高値で買わされ、その借金が返せずに植民地化が進むと見ていた。
島が吠えるように言う。
「そなたのおかげで、佐賀藩士が世に出る機会は失われた。われらは新たな政府ができても、薩長土三藩の下役に甘んじなければならなくなったのだ」
「それは分かりません。新たな政体の下では実力だけが重視されます。藩などという枠組みも崩れるでしょう」
大隈は強弁したが、二百六十年余にわたり藩という鋳型にはめられてきた諸藩士たちが、その枠組みから脱することは容易ではないと思われた。しかも、ここに至るまで多くの有為の材を失った長州藩などにしてみれば、生き残った藩士がいい目を見ないとなれば、何のために戦ってきたか分からないとなるだろう。
「藩という枠組みは、そう容易には崩れない。われら佐賀藩は薩長土の下風に立たされる。それを思うと、わしは口惜しくて眠れないのだ」
「口惜しくて眠れないのは島さんの勝手ですが、これで内戦が防げたのですから、よしとせねばなりません」
「それでは、ご隠居様も殿も新政府に居場所がなくてもよいのか!」
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