十六
慶応三年(一八六七)六月初旬、いよいよ閑叟が佐賀を出発した。二十七日には入京したものの、到着するや病状が悪化したため、誰かと会える状況ではなくなる。そのためしばらくの間、快復に努めねばならなかった。
ようやく慶喜との面談が叶ったのは七月十九日。場所は二条城である。だが緊張からか急に体調が悪化し、慶喜と酒食を共にすることもできず、早々に引き揚げることになる。
つまり大政奉還を説くどころではなく、「長州への寛大な措置」を願うだけにとどまった。
慶喜から議会制民主主義についてどう思うか下問された時も、「まことに上下の意思を一致させるのに、これほどよき政体はないと思うが、機密漏洩の危険性は高い」と否定的見解を示した。さらに慶喜から「力になってほしい」という打診を受けたものの、閑叟は「長崎警固専心」を繰り返し、中央政局に乗り出すそぶりを示さなかった。
二十一日には伊達宗城と松平春嶽が、見舞いのため閑叟の泊まる妙顕寺を訪問したが、閑叟の顔色は冴えず、政治的な話をすることはできなかった。
この時、宗城は「閑叟兄とは五年ぶりだったが、実に老衰しており驚いてしまった」と書き残している。
二十七日、病状が好転した閑叟は大坂城で再び慶喜と相対するが、この時は英国公使のパークスや通詞のアーネスト・サトウが将軍に面談するという趣旨だったので、慶喜と親しく会話することはできなかった。
そこまでは致し方ないことだったが、この面談後、閑叟は突然「帰る」と言い出した。病身の閑叟にとって中央政局に乗り出すことは重荷以外の何物でもなく、新たな政体の主導権を握るにしても、その責任を全うできないと判断したのだ。かくして閑叟は、呆気なく京を後にすることになる。
幕末の動乱にあって文久二年、元治元年、そして慶応三年と三度の入京を果たした閑叟だったが、中央政界に及ぼした影響は微々たるものだった。
この入京行に同行した久米邦武から委細を聞いた大隈は、落胆を隠しきれなかった。だが時代が変わっていく予兆は閑叟にも伝わっていたらしく、呼び出しを受けた大隈は、閑叟から江戸を視察してくるよう命じられる。
勇躍した大隈は慶応三年(一八六七)十月、長崎からの直航便で横浜に入る。発展する横浜を視察するゆとりもなく、大隈は江戸に向かい、佐賀藩と親しい幕臣らに会って今後の方針を確認した。この時、勝海舟とも初めて会い、その知遇を得たが、初対面ということもあり、腹を割って話をしたわけではない。
この時、大隈が見た江戸の混乱ぶりはすさまじく、大隈はその回顧録で「歩兵、新徴組は当たるに任せて乱暴し、いわゆる盗賊白昼に横行するの有様なりき。江戸にしてかくの如し。天下(畿内)のことは知るべきのみ。幕府はすでに自滅に陥れり」と記している。
つまり大隈は江戸の秩序さえ守れなくなった幕府は、すでに統治機関として機能しておらず、その先行きも見えていると感じたのだ。
その帰途、大坂を経て京都に入った大隈は、こちらも物情騒然としている有様に啞然とした。そこで同僚の山口尚芳から京都の情勢を聞き、もはや猶予はないと覚った大隈は、兵庫経由で佐賀に戻ることにする。むろん閑叟に四度目の入京を促すためだ。
ところが佐賀に戻った大隈より一足早く、佐賀には驚くべき一報が入っていた。
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