次郎長が直の金を盗んで出奔したことがわかって、次郎八はもはや夜分であるのにもかかわらず、出入りの者を呼びにやった。
日頃、世話になっている甲田屋にお家の大事が出来したらしい、これはなにをおいても駆けつけなければならぬ、というので、忠義なことだ、出入りの熊五郎という者が夜分であるのにもかかわらず、すっとんでくる、その熊五郎に次郎八、声を潜め、
「熊五郎の親方、実はこうこうこうこうこういう訳で次郎長が家を出た、それについておまえさんに……」
と話をしかけたところみなまで聞かないで熊五郎、
「えええええええっ、するってぇとなんですかい。お宅の長五郎さんがお直様の金を盗んで逃げたってんですかい」
と大声を出し、次郎八は慌ててこれを押しとどめた。
「しっ、声が高い。丁稚どもに聞こえたら、彼奴らは口が軽い、すぐにご近所に知れてしまう。どうぞ小さな声で話しとくれ」
「こらどうも相済みません。で、手前はなにをすればよろしいんで」
「言わずと知れたこと、すぐに追っかけてって次郎長を連れ戻して欲しいンだ」
「ようがす。そいじゃあ、行って参ります」
「待て待て、おまさん、次郎長が西に向かったのか東に向かったのか知ってるのかい」
「あー、それを聞くのを忘れてた」
「こんな人だよ。いいか、次郎長は江戸に向かったに違いない。東海道を東に向かったのだ。あー、ちょっと待て、これは取りあえず渡しておく。また、次郎長が戻って落ち着いたら後でなにするから。じゃ、頼んだよ」
「へい。ありがとう存じます。あー、こらまた仰山に……、って、ところで」
「なんだ」
「次郎長さんが金をお盗りになって、家をお出になったと伺いましたが……」
「お盗りなった、ってのは妙だ。けどそうだよ」
「どれほどお持ちになったんでしょうね」
「それはおまえ……、いくらだろう、直、次郎長はいくら持って逃げたんだ」
熊五郎に問われた次郎八は、今更ながらそれを聞いていなかったことを思い出した。次郎八は青い顔をして隣に座っている直に問うた。
「直、次郎長はいくら持って逃げたのだ」
「そ、それは……」
と直は答えに詰まった。なぜなら直が行李の中に入れていた金は次郎長が睨んだとおり、店の金をごまかした金であったからである。
「そんなことどうだっていいじゃあありませんか」
「そりゃあそうだが、次郎長が誰かに唆されて金を騙し取られたり、博奕の負けをやくざに脅し取られたりしていることも考えられる。私たちはそれを知っとくべきだ。さあ、言いなさい。次郎長はいくら持って出た。おまえはいくら行李に入れていたのだ」
そこまで言われて黙っては居られず直はついに言った。
「四百五十ですよ」
言われて次郎八は、拍子抜けした、という顔で言った。
「たった四百五十文、そんなわずかな銭で、おまえはあんな声を出したのか。それくらい、どうだっていいじゃないか」
「いえ、そうではなく」
「じゃあ、なんだ」
「四百五十両ですよ」
「四百五十両だとおおおおっ」
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