夢はなくとも、地図を描く
「夢」をもてないことは欠損だと思っていた。
「おとなになったら何になりたい?」「やりたいことはなんですか?」という質問に、いつもどれだけ考えても「ないんです」としか言えない。あるべきものがないのか、あるけど見えていないのか、わからないけどとにかく自分の中に見つけることはできなかった。足りないのは計画性か、それとも想像力かと悩んだりもした。
おとなになっても、仕事や生活に特別不満があるわけではないけれど、ぴったりフィットしている快適さも、ばっちり目が合っている安心感もない。時間を忘れて没頭するほど夢中にもなれない。かといって他にやりたいことがあるわけでもない。そもそもやりたいことってなんだっけ……?
何かがちがうことだけはわかるけれど、何がちがうのかはぜんぜんわからない。ああ、わたしは誰、ここはどこ、仕事って何?と迷子になった経験はないだろうか。わたしは、ある。
中学2年生のとき、「将来の夢」の作文が書けなかった。
夢は設定するものではないし、世の中にどんな職業があるのか知らないからまだ決められないと思っていた。それに、書くことには力があるから、書いたら自分を暗示にかけてしまうので、まだわからないうちに書きたくないとも思っていた。
その言い分は、半分は正しくて、半分はまちがっていた。
そのときに知っている数少ない中から選んで固定してしまうと、それ以上視野が広がらないから、もっといろんなことを知ってから決めたほうがいいよねとも思うし、まだ出合っていない可能性のために出し惜しみをして一歩も動けないよりも、思い込みでもいいから将来を想像して自分を調子に乗せてすすんだほうがいいよとも思う。
たぶん、わたしに足りなかったのは、自分の将来は良いものだと思い込む力と、自分を楽しませるために調子に乗る力だった。
両親が働く姿を見て、なんとなく仕事はおとなを苦しめるイヤなもので、働くのはつらいことだと感じていたので、将来について考えるときにワクワクと明るいものを見ていなかった。「調子に乗るな」「勝手なことをするな」といつも言われていたので、自分の好きなことをしてもいい、自分で決めてもいいと思っていなかったのだろう。
中学生のわたしは、勉強や部活、人間関係に対してもどういうわけかがんばるとか努力するとは何かをガマンすることだと思っていて、楽しいことや好きなことを続けた先に仕事があるとは思いつきもしなかった。
おとなになってからわかったことがいくつかあって、ひとつは、「これをするぞ」と決めてすすめる人と、すすみながら見つけていく人がいるということだ。
ゴールの設定を先に決めて旗を立て、そこに向かって道をつくってすすめる人、つまり夢がもてる人は、まだ見ぬ何かが自分のために良いものだと思えて、未来は自分を受け入れてくれると信じることができる。宝島はあるのだと信じて、行き先までの地図を描ける。
すすみながらやることを見つける人は、まだ見ぬ何かよりも、目の前にあるものに対して何を思うかで判断をしている。どこに向かっているかはわからないけど、その都度いい匂いがするほうへとすすみ、ひとつひとつ好きな方向を選んですすむ。その結果、歩いた記録をあとから振り返るとそれが地図になっている。
夢がもてないとしても、すすんでいたらちゃんとその先に「これが欲しい」「これをしたい」と思えるものが「ある」と信じることが大事なのだと思う。目の前のことにちゃんと向き合って判断しながらすすんでいたら、逃げずに正直に歩いていたら、広場があるよ。そこに着いたらわかるよ。と、言い聞かせてすすむしかない。
宝島への地図が手の中になくても、今この瞬間も新しい地図をつくっていると信じてすすむ「夢」がもてないわたしたちは、想像力の欠損どころか、だいぶロマンチストなのだろう。
とはいえ、すすんでいる過程で「何かがちがう」「ここじゃない」と感じたときに、「やりたいこと」や「目標」がない場合、何を基準にどう動いたらいいのだろうか。未来が見えないとき、何を見て決めたらいいのだろうか。どうしてやりたいことが湧いてくる人と湧いてこない人がいるんだろうか。
そんな疑問が次々と出てきたので、過去の地図を振り返るようにちょっと考えてみる。
世界は「夢組」と「叶え組」でできている
「やりたいことがある人」と「やりたいことがない人」について考えてみる。
わたし自身は「やりたいことがない人」で、洋菓子業界で会社員として12年間勤めたあと、2011年に独立してクッキー屋「SAC about cookies」を経営しているのだけど、それは「やりたかったこと」や「夢」ではない。
お店を始めたのは、シングルマザーが子供と生活するのに「お金と時間がない」ことで困るのがイヤだから。困らないために、自分のできることから消去法で削り出した手段で、どちらかというと「この方法しかないからしかたないな……」と始めたことだ(始めたからにはちゃんとやっていて、しぶしぶやっているわけではないという言い訳も念のため)。
「自分のお店をもつ」といっても、会社員のときからずっとお菓子をつくること以外のお店の運営の仕事をしていたので、クッキー屋はつくれてもクッキーはつくれない。だから、クッキーをつくれるスタッフを雇ってお店をやっている。「お店をもちたい」のではなく、「お店屋さんならできる」いや、むしろ「お店屋さんしかできない」から始めたのだった。
わたしの場合、不足を満たすために考え尽くしてやることを決めたので、ある意味「(不足を満たすために)やりたいこと」ではある。だけど、わたしの考える「やりたいことがある人」は、内側から湧き出る、むしろ生活の手段にはできないかもしれないけどやってみたい、衝動として「これがやりたい!」がある人のことだ。わたしは残念ながらそれではない。……と思ったけど、やりたいことがないのはほんとうに残念なのか?
わたしが経営するクッキー屋にはスタッフが4人いる。採用のときに個人の能力以上に重要視しているのは、スタッフ内に「やりたいことがある人」と「やりたいことがない人」を交ぜることだ。
たとえば、スタッフMさんは、将来自分でお菓子のお店を開きたいという「やりたいことがある人」で、彼女には将来に役立つような仕事をまかせたり、お店を運営するのに必要なことを教えたりしている。同時に、彼女が個人で立ち上げたブランドも社内で展開していて、わたしはその運営も手伝っている。
スタッフKさんは、今までまったくちがう分野の仕事をしていたのだけど、何か新しいことをしてみたいと思っていた。どんな仕事でもよかったのだけど、たまたまわたしが書いているnote(文章、写真、イラスト、音楽、映像などを手軽に投稿できるクリエイターと読者をつなぐサービス)を読んで「この人はおもしろそうだな」という理由で「働きたい」と言ってくれた。彼女は「やりたいことがない人」で、Mさんのやりたいことの話をして「わたしのお店の仕事だけだと作業ばかりでつまらないかもしれないから、Mさんのやりたいことを一緒に考えたり動いたりしてほしい」と言ったらよろこんでくれたので、働いてもらうことにした。
つまり、社内の4人のスタッフはふたつのブランドの商品をどちらも製造し、わたしのブランド(量産型で作業メイン)と、Mさんのブランド(表現型でいろいろチャレンジする)の両方を経験できるようにした。
「やりたいことがない人」も、やりがいは欲しくて、やることに意味が欲しい。あなたがいるからたすかる、あなたがいないと困る、いてくれてよかったと言われたい。
なんとなく「やりたいことがある人」や、夢に向かってすすむことが良しとされる風潮があるけれど、やりたいことがないからといって嘆くことはない。それに、「やりたいことがある/ない」の傾向は、自分の意思で突然変わったりはしないのではないか。
夢中になる能力があるやりたいことがある人を「夢組」だとしたら、やりたいことがない人は「叶え組」だ。
このふたつは組み合わせてチームになるといい。仕事でも夫婦でもなんでも、自分にない能力をもっている相手を大事にできると、お互いに力になれる。自分が「夢組」なのか「叶え組」なのかがわかっていれば、無理して自分とはちがう何者かになろうとしなくてすむ。
わたしは「叶え組」なので、やりたいことがある人のたすけになれる。気持ちはつよいけどやり方がわからない人に、手段や優先順位を一緒に考えたり見せてあげることができる。それがわかってから、自分のその能力は単なるおせっかいではなく、「叶え組」のつよみだと堂々と言えるようになった。「やりたいことがない」わたしがいると、きっといいことがあるよと。
あなたは「夢組」?「叶え組」?