歩くリズムがほんの少しズレ気味の男女が、建物の中に吸い込まれていった。次の1軒には一人の女性が足早に消えていく。渋谷・円山町の狭い道には、刹那が漂っている。
ネオンが寂しげに輝くラブホテルがひしめくこの一帯は、どの建物も似たようなデザインで記憶のトリガーにならない。愛を育む場所なのに「ああ、この部屋で」という思い出がどうしても根付かないのだ。
午後7時前、私は女友達と会うために円山町の坂道を登っていた。
ラブホテル街の真ん中にあるこじんまりした居酒屋で、女友達とああでもないこうでもないとタラレバ話をするためだ。
「寿退社」は今や都市伝説。一生働き続けたい私たちは、仕事が原因で破局する。タスクに追われていると恋人が怪訝な顔をしたり、案件がうまくいかないとキツくあたってしまったり、転勤で遠距離恋愛を余儀なくされたり。考えることが多すぎて投げ出したくなってしまう。
3時間弱話し込んだ挙げ句、「好きって何?」という純粋すぎる問いに行き着き、答えも出せないまま店を後にした。
そんなに悩むなら、恋愛などせず仕事だけすれば良いのではないか。なぜこうもめんどくさいことをしてしまうのか。
きっとそれには「愛着」という概念が関係している。
生きるうえで必要な「愛着」
愛着理論とは精神科医ボウルビィが提唱した、人と人とが親密な関係を築くための学説だ。ボウルビィは、子どもは母親という愛着の基盤があるからこそ、自己肯定感が芽生えるとしている。
愛着理論に関しては、心理学者ハリー・ハーロウによる、親から離された赤ん坊の子ザルを使った実験が有名だ。
幼い時に親から離された子ザルは、栄養を十分に与えても高確率で死んでしまう。一方、親の代わりに布製の人形をケージにいれると、子ザルは一日中それにしがみつくようになり、命がながらえたという。とはいえ、母親のいる子ザルに比べると、協調性がなく、健康面の発達も劣ることがわかった。
つまり、精神的に安心する何かが存在しないことは、死に直結したり、精神的な欠落をもたらす——。
もちろんこれは学説のひとつに過ぎない。でも、母親を幼いときにがんで亡くした自分にとって非常に納得のいくものだった。
父も姉もいて何不自由なく育ててもらい、不幸だとは思わない。けれども、幼少期に母親という存在を失った事実は、私の価値観に大きな影響を与えた。愛着が母親と子供という特別な関係によって生まれるならば、私はその機会を失ってしまったことになる。
私は根拠がないことをどうしても信じられない。例えば、「明日はいい日になるよ」という励ましの言葉を何度投げかけてもらっても、1ミクロンも理解できない。信頼とか無償の愛はもちろん、「好き」という感情すらよくわからない。
どうして不確実なものをなんの疑いもなく信じられるのだろう?
選ばれるためには対価や根拠が必要ではないのか。愛用しているiPhoneだって、ドクターマーチンのブーツだって、全部理由がある。無根拠にそれを選ぶことはない。
これは人間関係にも言えることで、外見の良さとか社会的地位とか、趣味が似通っているとか、そういう根拠がないと選んでもらえないと感じてしまう。だってそうじゃないか。マッチングアプリには顔の写真と年収や趣味がガッツリ並ぶ。スワイプする指を止めるのは、何か付加価値を見つけるからでしょう?
大人になって生まれる恋愛のしがらみだってそうだ。優先順位が低いとか、金銭感覚が違うからとか、生活習慣が合わないとか。対価が見合ってないと感じるから刺々しい気持ちが芽生えるのではないか。
愛着は、こうした情報的な価値とは対極にあるものなのだろう。無根拠な肯定を信じられること。私には長らくそれがなかった。
子どもたちを見て気がついたこと
愛着はどうやって築けば良いのだろう?
悶々としながら電車に乗ると、向かいの席に家族が座っていた。お父さんと娘が2人。弾むような高い声でじゃれ合う2人と、少し困った顔をしながら笑う父。よく見る光景だった。
ふと、歩いていると5歳と3歳くらいの兄妹に話しかけられたことを思い出した。私のiPhoneケースに触りたいのだという。ひとしきり会話をすると「今ね、忍者ごっこしてるの」と言い、2人は笑いながら「じゃあね」と走って行った。
ショッピングモールを歩いているときには、疲れ切ったのか親の足を枕にしてスヤスヤと眠る子どもがいた。
街にいる子供たちを見ていると、あることに気がつく。人に触っていたのだ。大人よりもはるかに多く、自然に。