谷崎潤一郎の気分力
なんでもない出来事も、感情移入しながら追体験できる。
日記でも、レポートでも、メールでも、身の回りで起きた出来事や状況を伝えようとするとき、たいていの人は「淡々と」してしまいがちです。
私もずっと「淡々と」が好きでしたが、『痴人の愛』を読んでから考えを改めました。
状況を伝える上で大事なのは、「なにがあったのか」よりも「どう感じているか」を伝えることなのか! と考え直すことができたのです。
これは、新しい家に引っ越してきたばかりの描写。
あの描写の鬼『陰翳礼讃』の谷崎潤一郎なんですから、どれほど巧みな風景描写をしてくれるんだろう? と期待がふくらみます。
でも、実際読んでみると、けっこう普通。
光景がありありと脳内で再現されるような迫力は、正直そんなに感じられない。
それでもしみじみと、情景への感慨が伝わってくる。なぜか。それは、光景のいちいちに「自分がどう感じているか(主観)」が含まれているからです。
ちなみに、下線部はすべて主人公が「どう感じているか」という部分。
「屋根裏から海が眺められる」「南を向いた前の空地」「電車が通る」「田圃がある」などは風景描写ですが、それに対して「日あたりのいい」「不便でもない」「花壇を造るのに都合がいい」「瑕でしたけれど」「やかましくはないく」「これなら申し分ない」「思いの外に家賃が安く」など、 主人公の引っ越しに対する「どう感じているか」が織り込まれているのです。どれもポジティブだし、明るいですよね。
だって、そうでしょう。
引っ越す以前に「ナオミ」に同棲を持ちかけて、了承を得たわけですから。
これこそ主人公が家を気に入っている最大の理由。ここでは引っ越しではなく、引っ越しに対する感情が描かれている。
うまく描写しようとがんばらなくても、「どう感じているか」の描写が入るだけで、ぐっと面白くなる。
ためしに反対バージョンとして、主人公が引っ越しに対して、否定的な印象を持ったらどうなるか、“下手”に書いてみますね。
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