三
大隈の八面六臂の活躍により、佐賀藩の交易事業は徐々に採算に乗りつつあった。その一方、英語学校の設立は、国内の混乱が激しさを増すに従い、盛り上がらなくなってきた。そのため大隈ら長崎にいる面々は、藩から経費を出してもらい、崇福寺にあるフルベッキの塾に通っていた。
七月下旬、藩命で京都方面の事情を探っていた副島が、血相を変えてやってきた。
長崎は佐賀藩の要人の往来が盛んなので、最新の情報を携えて佐賀城下に向かう者たちの持つ情報を先んじて聞ける。しかも佐賀藩は五隻もの蒸気船を動かしていたので、他藩に比べて情報の入手が早い。その反面、京都留守居役が重要だと思えば、情報だけでも船を動かしたので、石炭代が馬鹿にならないほど膨れ上がっていた。
この時、長崎で英語を学んでいた佐賀藩士は中牟田倉之助、石丸虎五郎、本野周蔵の三人である。
崇福寺の一室を借りた副島は、大隈を含めた四人を集めると戸を閉めきった。
——重大な話だな。
副島の呼び出しに応じ、談笑しながらやってきた四人の間に緊張が走る。
「たいへんなことになった」
副島の眉間に深い皺が寄る。
「何があったのですか」
四人が身を乗り出す。
「長州藩が禁裏を攻撃した」
四人が息をのむ。
——確かに、こいつはたいへんなことだ。
朝廷のお膝元の京都で戦闘があるなど、大隈は考えてもいなかった。
四人の間で最年長の大隈が問う。
「それで——。それでどうなりましたか」
「長州藩は敗れ、多くの藩士や尊攘派志士たちが討ち死に、ないしは切腹を遂げた」
四人の間にため息が漏れる。
副島が経緯を説明した。
前年の八月十八日の政変で、長州藩の尊攘勢力は京都から駆逐されて政治力を失った。その巻き返しを図るべく、浪士たちが京都に潜入し、長州藩の京都藩邸と連携して失地回復の機会をうかがっていた。ところが会津藩御預の新選組の探索網に掛かり、この六月、旅宿の池田屋に集まっていた者たちが一網打尽にされた。この時、斬り死にした者や捕縛後に獄死した長州藩士や関係者も多く、国元の萩や山口では復仇の声が上がった。
そして翌七月、長州藩軍が上洛の途に就く。出兵の大義は「長州藩士父子の謹慎処分を解くことを朝廷に奏上する」というものだったが、兵を率いていくからには、公武合体派の会津藩や薩摩藩との衝突は不可避だった。
副島が深刻な顔で続ける。
「そして三方から押し寄せた長州藩軍は御所に向けて発砲するが、会津・薩摩両藩軍によって退けられた」
「つまり公武合体派が主導権を守り抜き、長州藩が巻き返しに失敗したということですね」
「そういうことになる。これにより幕威は騰がり、その逆に尊皇攘夷派は意気消沈することになる」
——いずれにせよ小攘夷を防げたのは祝着なことだ。
このまま小攘夷を主張する長州藩と尊攘派志士たちが政治の主導権を握ったままだと、諸外国の鉄槌が下ることは火を見るよりも明らかだ。
それゆえ大隈は「これでよかった」と思った。
珍しく大隈以外の誰かが問うた。
「では、幕府の体制は存続するんですね」
問題はそこだった。
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