普通であることの勇気。なんと、なんと怖ろしい言葉だ。アドラーは、そしてこの哲学者は、わたしにそんな道を選択せよというのか。なんの変哲もない、その他大勢として生きていけというのか。もちろん、わたしは天才ではない。「普通」を選ぶしかないのかもしれない。凡庸なるわたしを受け入れ、凡庸なる日常に身を委ねるしかないのかもしれない。しかし、わたしは闘う。結果がどうなろうと、最後までこの男に反旗を翻そう。おそらくいま、われわれの議論は核心に迫りつつある。青年の鼓動は高鳴り、握りしめられた手には季節外れの汗が滲んでいた。
人生とは連続する刹那である
哲人 わかりました。あなたのいう高邁なる目標とは、ちょうど登山で山頂をめざすようなイメージなのでしょう。
青年 ええ、そうです。人は、わたしは、山の頂きをめざすのです!
哲人 しかし、もしも人生が山頂にたどり着くための登山だとしたら、人生の大半は「途上」になってしまいます。つまり、山を踏破したところから「ほんとうの人生」がはじまるのであって、そこに至るまでの道のりは「仮のわたし」による「仮の人生」なのだと。
青年 そうともいえるでしょう。いまのわたしは、まさに途上の人間です。
哲人 では、仮にあなたが山頂にたどり着けなかったとしたら、あなたの生はどうなるのでしょう? 事故や病気などでたどり着けないこともありますし、登山そのものが失敗に終わる可能性も十分にありえます。「途上」のまま、「仮のわたし」のまま、そして「仮の人生」のまま、人生が中断されてしまうわけです。いったい、その場合の生とはなんなのでしょうか?
青年 そ、それは自業自得ですよ! わたしに能力がなかった、山を登るだけの体力がなかった、運がなかった、実力不足だった、それだけの話です! ええ、その現実を受け入れる覚悟はできています!
哲人 アドラー心理学の立場は違います。人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえています。この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、大小さまざまなカーヴを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだと。しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。
青年 では、人生はどんな姿だとおっしゃるのです!?