哲人の主張をまとめると、こういうことだった。人は「わたしは誰かの役に立てている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる。しかしそこでの貢献は、目に見えるかたちでなくてもかまわない。誰かの役に立てているという主観的な感覚、つまり「貢献感」があればそれでいい。そして哲人はこう結論づける。すなわち、幸福とは「貢献感」のことなのだ、と。たしかに、それも真理の一面ではあるだろう。しかし、それだけが幸福なのか? わたしの望む幸福は、そんなものじゃない!
安直なる幸福の道を遮断せよ
青年 しかし、先生はまだわたしの質問にお答えになっていません。たしかにわたしは、他者貢献を通じて自分を好きになることができるのかもしれない。自分には価値があるのだ、自分は無価値な存在ではないのだ、と思えるのかもしれない。
でも、それだけで人は幸福なのですか? この世に生を受けたからには、なにか後世に名を残すような大事業を成し遂げたり、わたしが「他の誰でもないわたし」であることを証明しないことには、ほんとうの幸福は得られないでしょう。
先生はなんでも対人関係のなかに閉じこめてしまって、自己実現的な幸福についてなにも語ろうとされない! わたしにいわせれば、それは逃げです!
哲人 なるほど。よくわからないのですが、あなたの考える自己実現的な幸福とは、具体的にどういうものでしょうか?
青年 それは人それぞれですよ。社会的な成功を望む人もいるでしょうし、もっと個人的な目標、たとえば難病の特効薬を開発せんとする研究者もいれば、満足のいく作品を残そうとする芸術家もいるでしょう。
哲人 あなたの場合は?
青年 わたしはまだ、自分がなにを求めているのか、将来なにをやりたいのか、よくわかりません。でも、なにかをやらなきゃいけないことはわかっています。いつまでも大学図書館で働いているわけにもいかない。生涯をかけてめざすべき夢を見つけ、自己実現が達成できたときにこそ、わたしは真の幸福を実感するでしょう。
実際、わたしの父は仕事に明け暮れてはいましたが、それが彼にとっての幸福だったのかどうかは、わたしにはわかりません。少なくともわたしの目には、仕事に追われる父が幸せには見えなかった。わたしはあのような生を送りたくないのです。
哲人 わかりました。このあたりについては、問題行動に走る子どもを例に考えるとわかりやすいかもしれません。
青年 問題行動?