ー 現在 父67歳 私34歳 ー
私には若年性のアルツハイマー型認知症の父がいる。
主な生息場所はリビングのソファかダイニングテーブル。大概テレビを見ているか寝ているか食べている。
今日は何日? いまは昼なのか夜なのか。
いま家には誰がいる?
そもそも自分に子供なんていたっけ?
お母さんはどこにいったかな? 妻は?
おや、目の前に現れたこの人は僕の孫だっけ、娘だっけ?
いま、父の世界の中では、過去も未来も星座も越えて、他の人にはわからない速さで、毎日、誰かが突然消えたり現れたりしている。
もういまとなっては、娘の私にも、3年前の父のことが思い出せない。そのくらい父の変化は目まぐるしい。
だけど変わったのは父だけではない。
父が認知症であると診断された1年半後、
母 が が ん で あ る という診断がおりた。
発見しにくい場所にあったことですでに他臓器への転移もあり、すでに『ステージⅣ』であり手術もできないという。
「 が ん で す 」
「 ガ ー ー ー ン 」
……っていう漫画みたいな展開は、実際、ある。
頭の中で「ガ——ン」という音がしたような気がした。
隕石が落ちてきたような気分だった。
がん宣告の1年半後、母は逝った。
娘の私は、父の介護の中心人物となった。
9年前
ー 2010年 父58歳 母54歳 私25歳 ー
元気してるか、連絡せいよ。多少心配しとるぞ、連絡せんか、たまには。 おとう」
バリバリの東京出身のくせに、父からのメールは、なぜかいつも関西弁みたいな口調が混じっている。
心配性の父が送ってきたメールに少しだけ目をやり、あとで返信すればいいかと、旅先で会った人たちとの楽しいおしゃべりにすぐに戻った。
2010年。私は、新卒で入った会社を2年半で退職した。
会社はいわゆる「ブラック企業」と噂されるようなところだった。とにかく忙しく、多い時には月に140時間近く残業をした。上司も年齢的に若く、先輩たちもできる人からどんどん辞めていき、できる先輩がやめた後の仕事が、ぺーぺーの私にどんどん降りかかってくるという地獄の構造だった。このままだと体も心も壊してしまうという危機感を覚えた頃、私は会社をやめようと決めた。
会社を辞めると告げたらあとは気持ちが楽になってしまい、辞めたあとは1ヶ月間、計画も立てず、行き当たりばったりの国内放浪旅に出た。母からは、どこにいるかくらいはちょこちょこ連絡してよねと言われたが、元来の面倒臭がりな性格の私は、「ツイッター更新するからそこで見ておいてよ」といういい加減な返事をした。「ヒドイ」と母は言いながら、せっせと私のツイッターをチェックしては、頻繁にメールをくれた。
私はといえば仕事に追われてばかりの日々からの開放感と、これから何をしようかなという前向きな期待とともに押し寄せる今後への不安から目をそらすことで精一杯だった。そんな25歳の私は、家族から心配される存在であって、私が家族を心配することなど何ひとつなかった。
平和で、そこそこ過保護な家庭で育ち、社会にもまれて倒れかけた私を、父も母も心配したり甘やかしたりした。私はいかにも娘らしく、それを当たり前の恩恵のように受けていた。
かつての父はアメリカ人
父はもともと、アメリカ人みたいな人だった。
父の海外赴任のため我が家は過去に2回、アメリカで暮らしている。私は三人兄弟だが、4歳上の兄は日本生まれ、私はカリフォルニア生まれ、9歳年下の弟はボストン生まれだ。
父はわりと豪快な性格で、家族に甘く、外資系企業に勤めていてよく働き、ぺらぺらと英語をしゃべり、比較的誰とでも仲良くなるが合わない人とは合わないと決別する、フランクな性格。
バリバリの営業マンで、自己主張も態度も強めにブイブイとした手腕で周囲を唸らせ、世渡りがうまく、たぶんなかなかやり手で、収入は高く我が家は比較的裕福でいられた。
長年続けているような趣味はなかったが、何かを学ぶことや旅行することが好きで、アメリカ在住中も含め海外も日本も様々な場所へ行った。
車が好きだった父の運転で、家族でもよく出かけた。我が家は5人家族だが、私より4歳上の兄は就職して家を離れていたので、両親と私と9歳年下の弟の4人で出かける機会も多かった。車の中では音楽をよくかけていた。女性ボーカルが好きだった父は、キャロル・キング、カーペンターズ、竹内まりやや今井美樹などをよくかけては、ご機嫌に口ずさんでいた。
子供の頃は父や母の趣味の音楽をかけていたが、私や兄弟が大きくなると、それぞれが好きなCDを持ち込んではかけるようになっていく。当時私は、9歳年下の弟のかける音楽に興味がなかったが、父は「なかなかいいなぁ」と言って聞く。気に入らないものや耳障りなものは「ちょっと違うのかけてよ」と苛立つが、人の好きな音楽にも興味を持って付き合えるのが父だった。車内では、音楽をかけていても音楽に負けないくらいのボリュームで母が高速にしゃべり続け、素早いテンポで私や弟が返す。父は鼻歌を歌っている。なんだかいつもにぎやかな家族だった。
父の異変
父はやりたい!と思いついたら行動はすぐ起こす性格でもあった。50歳の頃、そもそも忙しい仕事の合間に、経営学修士(MBA)を取得するために大学院に通学していたのだ。
バリバリ働きながら、休日や夜は大学院へ通っていた頃、父はある日、会社でてんかんの重積発作をおこして倒れた。その後救急車で運ばれ、なんと集中治療室へ。
当時高校生だった私はパニックになり、父が死んでしまうのかという衝撃で涙が止まらないまま、先に病院へ向かった母を見送り、そのあと小学校から帰宅した弟を連れて、タクシーで病院に向かったことを覚えている。タクシーでも涙は止まらなかった。
病院に着いて管だらけの父を見て、ああもう父は死んでしまうのか、と思ってまた涙があふれた。生きた心地のしないまま、止まらない涙をぬぐいながら、待合室で数時間待つと、ようやく父が意識を取り戻したという知らせが入った。
そしてICUで意識を取り戻した父の第一声は……「会社に戻らなきゃ」。
そんな一声を聞いて、少し安堵したと同時に、不安そうにしていた母が「何言ってんの」と呆れ、
「まず歩けるようになってからな」と、兄がすかさず突っこんだ。
数時間ぶりに、私も笑った。
「本当だよねぇ」
大学生だった兄が、ずいぶん冷静で大人に見えたものだった。
そこから数週間の休暇をはさんだものの、退院後の生活にそこまでの支障はなく、父はまたハードな生活に戻った。
とはいえ一回間近に迫った死を見ているので、家族も多少は無理をしないように口を挟みながらとりあえずMBA取得までは見守った。
しばらくすると忘れたようになるもので、父はなんの変哲もなく普通の父に戻った……と思われた。
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