七
脱藩した江藤が京の藩邸に出頭した文久二年(一八六二)八月、佐賀では一大事が持ち上がっていた。義祭同盟の盟主である枝吉神陽が重篤となったのだ。
この前年の文久元年(一八六一)八月、平野国臣が佐賀に来訪したが、その直後の九月、神陽は閑叟の参府に伴って江戸へ入った。
神陽は江戸藩邸詰めの藩士たちから江戸の情勢を聞き、また国事を熱く論じ合った。ところが翌文久二年正月の坂下門外の変で、神陽を取り巻く状況は一変する。
まず弟子の一人の中野方蔵が捕縛された。藩邸を出て湯屋に行ったところを捕吏に踏み込まれたのだ。これを聞いた神陽は藩邸から出ないようにし、四月、閑叟の帰国の行列から離れず、無事に佐賀に戻ることができた。ところが折悪しく、佐賀ではコレラが流行していた。
まず神陽の妻のしづが罹患した。コレラは数日の潜伏期間を経て症状が出るので、神陽はしづの罹患に気づかず共に過ごしていた。
ところが八月十二日、しづに症状が出て、翌日には、神陽も罹患したことが明らかとなった。
十三日、早くも神陽は立てなくなった。これを聞きつけた知己や弟子たちが駆けつけてきた。
コレラは空気感染しないので、神陽の枕頭には多くの者たちが集まっていた。義祭同盟の者たちも、収監中の江藤を除き、ほぼ全員がやってきた。その中には帰省していた大隈もいる。
神陽は三歳の嫡男を妹に抱かせ、副島に枝吉家の後事を託すと、集まった者たちに向かい、たどたどしい言葉で語り始めた。
「私はいつの日か、殿を奉じて勤皇の旗を掲げようと思っていた。だがその思い叶わず、ここに朽ち果てる。間もなく島津公(久光)が上府し、尊皇攘夷の旗を掲げるだろう。それが討幕の旗に変わるかもしれない。薩摩の精忠組はもとより、肥後の真木和泉一党、長州の吉田党(松陰門下生)らもこれに呼応するだろう。それゆえ島津公の挙兵が確かなものとなったら、いち早くこれに呼応すべし。何としてもご老公(閑叟)を説き、ご老公を奉じて佐賀藩軍の半数を上げて薩摩に合流するのだ」
閑叟は徳川家と縁戚関係にあることから、幕府に同情的で、公儀政体という政治体制を志向していた。これは島津斉彬の跡を実質的に継いだ久光も同じだった。それゆえ薩摩が討幕の旗を挙げる可能性は、極めて低かった。
副島が神陽に問う。
「今、佐賀藩軍の半数で薩摩藩軍に合流せよと仰せでしたが、残る半数はいかがなされる」
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