「世の中は変わる」
平野が第一声を発する。
「嘉永六年(一八五三)の黒船騒動以来、幕府は開国へと舵を切り、諸藩もその動きに同調するようになった。貴藩はいち早く鉄製大砲を鋳造し、外夷の侵攻に備えようとした。その考えはまことに天晴れ!」
平野が一拍置く。
「しかし何事も夷狄の風習に倣うのは間違っている。古代から日本には美しき風習がある。そうした古式を尊ぶ姿勢なくして夷狄の風習を取り入れれば、日本人は魂を失うことになる。天皇を頂点とした新たな国家を築く上でも、古式を重んじることは何よりも大切なのだ」
平野は尚古主義を掲げ、純度の高い尊皇攘夷思想を論じた。その姿勢には襟を正すものがあったが、もちろんすべて同意できるものではない。
神陽が問う。
「ご高説、傾聴に値します。では諸国の事情に精通している平野殿は、今後の世の中の動きをどう見ていますか」
「幕府はなくなり、早晩、天皇を中心にした政体に取って代わられるでしょう。もちろん天皇は象徴ゆえ、執政の座に誰が就くかが重要です。将軍はもとより公家連中で、その任に応えられるものはおりません。強いて挙げれば、松平春嶽公、伊達宗城公、そして貴藩の鍋島閑叟公でしょう。ただし大名出身者も細かいことまで精通しておらぬので、執政には適していません」
「では、平野殿の見立てでは、誰がその任に耐えられるとお思いか」
「おそらく」と言って遠い目をした平野は、ゆっくりと腕組みすると続けた。
「一人しかおりません」
「一人と仰せか。いったいその御仁は——」
平野は大きく息を吸い込むと言った。
「薩摩の西郷吉之助」
「おお」というどよめきが起こる。
——西郷吉之助か。
大隈もその名は聞いたことがある。
「その御仁は、よほど頭が切れるのでありましょうな」
「いや」と言って平野がにやりとする。
「なまくら、と言ってもいいでしょう」
「えっ、なまくらと——」
神陽が啞然とする。
「はい。なまくらはなまくらでも、一度鞘から放たれると、鉄でも断ち切ります」
「いったいどういうお方か」
西郷という男の面影を思い出すかのように、平野が瞑目して言った。
「黙って相手の話を聞き、時にはうなずくだけで己の考えを述べず、『ご高説、たいへん役に立ちもした』と言って頭を下げることもあります」
「では、どのような考えか分からないではありませんか」
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