厳格な両親に育てられた青年は、幼いころからずっと兄と比較され、虐げられてきた。どんな意見も聞き入れられず、出来の悪い弟だと言葉の暴力にさらされてきた。学校でも友達をつくれず、休み時間はずっと図書室にこもっていた。図書室だけが自分の居場所だった。そんな少年時代を過ごしてきた青年は、まさに原因論の住人だった。もしもあの親の下に育たず、あの兄が存在せず、あの学校に育っていなければ、自分にはもっと明るい人生があったはずだと。なるべく冷静に議論しようとしていた青年だったが、ここにきて積年の思いが爆発してしまった。
権力争いから復讐へ
青年 いいですか先生、目的論など詭弁であり、トラウマは確実に存在します! そして
人は過去から自由になることなどできない! 先生もお認めになったでしょう? われわれはタイムマシンで過去にさかのぼることはできないのだと。過去が過去として存在しているかぎり、われわれは過去からの文脈のなかに生きているのです。もしも過去をなかったものとするのなら、それは人生を否定しているも同然です! 先生はそんな無責任な生を選べとおっしゃるのですか!
哲人 そう、タイムマシンに乗ることもできなければ、時計の針を巻き戻すこともできません。しかし、過去の出来事にどのような意味づけをほどこすか。これは「いまのあなた」に与えられた課題です。
青年 では、「いま」の話を聞きましょう。前回、先生は「人は怒りの感情を捏造する」とおっしゃいましたね? 目的論の立場で考えるとそうなるのだ、と。わたしはいまだにあの言葉が納得できません。
たとえば、社会に対する怒り、政治に対する怒りなどの場合はどう説明されます? これもまた、自らの主張を押し通すために捏造された感情だといえますか?
哲人 たしかに、社会的な問題に憤りを覚えることはあります。しかしそれは、突発的な感情ではなく、論理に基づく憤りでしょう。私的な怒り(私憤)と、社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違います。私的な怒りは、すぐに冷める。一方の公憤は、長く継続する。私憤の発露としての怒りは、他者を屈服させるための道具にすぎません。
青年 私憤と公憤は違うと?
哲人 まったく違います。公憤は、自身の利害を超えているのですから。
青年 じゃあ、私憤について伺います。いくら先生だって、さしたる理由もなく罵倒されたら腹が立つでしょう?
哲人 立ちません。
青年 嘘をついちゃいけません!
哲人 もしも面罵されたなら、その人の「目的」を考えるのです。直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。
青年 権力争い?