アイドルの出待ち」から考える、社会運動への過度な期待

前回は「社会運動って結局意味あるの?」という社会運動批判について考えました。今回は、これとよく似た批判「デモなんてやっても自己満足じゃないですか」を取り上げ、1970年代に出た社会運動論「新しい社会運動」を紹介しながら、「わがまま」を言うこと、社会運動をすることの“意味”についてさらに考えます。「わがまま」は「アイドルの出待ち」のようなもの?(『みんなの「わがまま」入門』より)

自己満足でもいい

「わがまま」を言って、あとは政治家や企業にバトンタッチといっても、そのバトンを受け止めてくれるかどうかが問題です。政治家は選挙で決まりますが、選挙が投票者の「数」を問題にしている限り、社会運動の背後に多数の「民意」、つまり人々の支持があることを政治家に理解させなければなりません。この数があまりに少数だったら、「わがまま」を言っても政治家はそれを無視するだけです。

つまりこの論理だと、少数派の社会運動は結局「意味がない」となってしまいます。しかし、そもそも社会運動の「意味」というのは、何か法律や制度を変えるということだけにあるのでしょうか。

社会運動論では、1970年代に「新しい社会運動」という理論が生まれました。これは一言で言ってしまえば「自分を変えることそのものも、社会運動と言えるんじゃないか?」という議論です。

「新しい社会運動論」では、たとえばフェミニズム運動が必ずしも、女性へのセクハラを防いだり、男女のお給料を平等にすることはできなくても、社会運動に参加した人が「男女平等」という考え方を学び、それで生きやすくなったなら、その運動には「意味がある」と捉えます。

社会運動に参加することで、それまで自分がセクハラを受けているのは個人的な問題だ、お給料が低いのは自分の努力不足だ、と考えていたことが、じつは女性が共通に抱えている悩みやつらさなんだとわかる。さらに、そうしたつらさをつくり出す構造が社会にある、と知ることによって、新しいものの見方を獲得できる。それ自体が社会運動の成果なんだ、とこの理論では解釈します。

調査をしていると、一度だけ社会運動に参加したという人にも出会います。仕事帰りに原発に反対するデモに行ってみたとか、貧困問題について考える勉強会に行ったとかですよね。ある人は、仕事が忙しくて、結局その後はあまり活動に参加しなかったけれど、「自分の思いもしなかった社会問題が相互につながっていることがわかって、視野が広がった」と言っていた。

このように、その後継続できなくても、一回きりの活動が何か目に見える成果を上げなくてもいいのです。社会運動に関わるだけで人は視野を広げ、本を読んで勉強したり、ネットで他の人にメッセージを伝えたりするかもしれない。

はじめてデモに行った人が、「自分と同じ意見の人がたくさんいてよかった」と感想を話してくれたことがあります。

それは見ようによっては何も解決していないわけですが、その人にとってはとてもいいことだった。彼女は、自分の周りには政治的な事柄に関する対話がなく、隣の人が政治について何を考えているのかわからないなかで過ごしていたけれど、デモに行って、同じ考えをしている人がこんなにいたんだと思ったわけですよね。そういう安心感が得られただけで、彼女には社会運動をした意味があったのではないでしょうか。

これは後で詳しくお伝えするんですけど、いちいち「わがまま」を言うのは疲れるし大変です。だからずっとやらなくていいんですよ。

昔は原発の建設に反対する運動や、労働条件をもっとよくしようという活動や、子ども食堂のような活動に参加していたんだけど、今はなかなかできなくて……と言う人たちはたくさんいます。彼らはたとえば、大工さんとか、整体師さんとか、DJだったりするわけですけれど、みんな仕事がすごく忙しい。

でも彼らの政治に対するモヤモヤとか、社会をこうしたいという気持ちは、きちんと仕事のなかに活きているんです。たとえば大工さんであれば、自然にやさしい建材や放射能の影響を受けていない木材を使ったりとか、整体師さんであれば、お客さんに「あんまり仕事がつらいようであれば、すこし休んだり辞めてもいいんだよ」と伝えるとかですよね。DJの方であれば、社会への抗議を示すような音楽をかけることで社会に対して物申したいという気持ちを伝えていく。

「わがまま」を言ってみて、社会の見方が変わったからこそ、そういうことができるのだと思います。


わがままはアイドルの出待ち?

 ここまで見てきたように、一口に社会運動の「意味」といっても多様なレベルがあります。これはみなさんの身近な「わがまま」に関しても同じで、意見を言うだけで意味があるはずなんです。それにもかかわらず、なぜ政治や社会に関して主張をしようとすると、「意味がないからやってもしょうがない」と言われてしまうのでしょうか。これは逆に言うと、政治や社会について物申すことの「特別さ」、「重要さ」を反映しているのではないかと思います。

社会学者の伊藤奈緒さんの研究(「社会運動の参加/不参加選択をめぐる意味構築」、2006年)では、社会問題に関心を持ちながらも、社会運動には参加しない人の調査を行っています。社会運動は自己犠牲を伴うもので、はじめたら時間も体力も何もかも捧げなくてはならない。遊び半分で中途半端に行うことは許されないから関わらない、という人々の存在を明らかにしていて、とてもおもしろい研究です。

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みんなの「わがまま」入門

富永京子

「権利を主張する」は自己中? 言っても何も変わらない? デモや政治への違和感から、校則や仕事へのモヤモヤまで、意見を言い、行動することへの「抵抗感」を、社会学の研究をもとにひもといていく、中高生に向けた5つの講義。身近な「わがまま...もっと読む

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コメント

uni_uni222 わがままでは何かが大きく変わらなくても、行動する人やその周りの人にとって何か変化があれば、それはその人にとって、社会運動をする意味になる |富永京子 @nomikaishiyouze | 7ヶ月前 replyretweetfavorite

shachiiiiiiiiii 「「わがまま」を言うことを、「アイドルのファン活動をする」くらいのことだと考えてみてはいかがでしょうか。」 何度もツイートしてしまって申し訳ないけど、この発想は本当に目からウロコだった。 https://t.co/IA84Fh5wMf 7ヶ月前 replyretweetfavorite

myamadakg これも学生に紹介しておくか。 7ヶ月前 replyretweetfavorite

yonezawaizumi 社会運動への参加とアイドルの出待ちは同じ、って!! いやー両方経験のあるよねざわとしては「そんな比較があったか!」とレトリックに感動しつつ、たしかに共通要素あるよな~と感心。 https://t.co/52T5MC8MW4 7ヶ月前 replyretweetfavorite