35歳なんて、まだまだいろんな可能性がある。

35歳の美雪は実業団に属するマラソン選手。いろんな意味で崖っぷちだ。まだ頑張れる、と周囲を驚かせながらもオリンピック出場を目指す彼女だったが──。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤と、その周囲の人々のそれぞれの人生の選択を描いた七つの短編集『産まなくても、産めなくても』より「折り返し地点」を特別公開。

 最後は全員、改めて抱負を聞かれ、会見は終わった。

 会見場を出たところで、見知らぬ女性に声をかけられた。彼女は長い髪を後ろで結わき、胸のところで切り返しのある長い丈のブラウスを着ていた。差し出された名刺には新聞社の社名が書かれており、所属はスポーツ部で、名前は東田奈美とあった。

「リオ、選ばれるといいですね」

 美雪は面食らった。正直なところ、自分とコーチ以外はそんな可能性はないと思っているから、なるべくその話題をさけようとする。亮や家族、それにチームメイトでさえ。

「はあ、ありがとうございます」

「私、江夏さんと同じ歳なんですよ。三十五なんて、まだまだいろんな可能性があるってことを見せつけちゃってください」

「……。がんばります」

「六月から産休なんで、江夏さんがオリンピックで走る記事を書けないのがくやしいけど」

 美雪は一礼してから、部屋に戻った。

 その後、コーチや一般参加でエントリーしているチームメイトたちと、ホテルのロビーで待ち合わせ、軽いジョギングに出た。スローペースで五キロほど走る。チームメイトは時々おしゃべりしながら走っていたが、誰も美雪には声をかけてこなかった。美雪は、ヤンマースタジアム長居に自分が真っ先に入ってくるのをイメージしながら走った。福士より重友よりチェピエゴより、自分が先に入ってくる場面だ。

 部屋に戻ってスマホを確認すると、亮からメッセージが入っていた。

──いよいよだね! 明日のお昼には大阪に行けるから。カーボ用のカステラ、二本買ってくよ。

 既読をつけたまま、何も返信せず、ベッドに横になった。今は自分のことしか考えられない、考えちゃいけない。明後日の自分のこと以外は。

 やり残したことはないだろうか? そう、自分に問いかけた。

 やるべきことはすべてやった。LSDもインターバル・トレーニングも高地トレーニングも、給水所でドリンクを取る練習も、腹筋もスクワットもストレッチも。これ以上できないぐらいの練習をしたつもりだ。

 調子は悪くない。明後日、練習の成果を試すだけなのだ。大丈夫、今の自分なら二十五分台で走れるはず。天気や風向き次第では、もっと速く走れるかもしれない。

 スマホがLINEの着信を知らせた。また、亮からだった。スタンプが送られてきた。アントニオ猪木が「いくぞー!」といって拳を振りあげているやつだ。

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産まなくても、産めなくても

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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