気宇壮大
一
佐賀藩鍋島家三十五万七千石の本拠・佐賀城の北東部には「片田江七小路」と呼ばれる東西に延びる七つの通りが、北から南に走っている。
この七つの通りには、武家屋敷が軒を連ねていたというが、佐賀藩士でも覚えにくかったらしく、数え歌になっていた。
馬通り、椎に花房中の橋、枳(げす)に会所は片田江のうち
北から馬(馬責馬場の略)、椎、花房、中の橋、枳、会所という小路の名だが、これでは六つにしかならない。ところが古地図を見ると、その謎が解ける。北から二番目の小路の名は「通小路」という無粋な名がついており、この数え歌の「馬通り」とは、二つの小路の名をつなぎ合わせていたと分かる。
ちなみに枳とは「げす」と読むが、「下司」という意味ではなく、カラタチというミカン科の低木から取られていた。
最南端の会所小路の近くには、河川へと通じる人工運河が走り、それに沿って米蔵や酒蔵が軒を連ねていた。そのため江戸時代中期頃まで役人と商人たちの会所があり、会所小路という名がついた。
この会所小路で天保九年(一八三八)二月十六日、男児が産声を上げた。
大隈八太郎、後の重信である。
その日は「よく晴れた日だった」と諸書にあることから、抜けるような晴天の下で、大隈は命を授かったことになる。
八太郎の八は産土神の龍造寺八幡にちなんだもので、龍造寺八幡のご加護によって元気に育ってほしいという両親の願いが込められていた。
両親の名は与一左衛門信保と三井子といい、大隈は二人の嫡男になる。順番としては、姉二人弟一人の四人兄弟の三番目だった。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。