NHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」第32回「独裁者」。銀メダルを獲得し帰国した前畑(上白石萌歌)を待っていたのは、東京市長・永田秀次郎(イッセー尾形)らによる落胆の声だった。田畑(阿部サダヲ)は選手をかばって激怒するが、国民の大きすぎる期待に前畑は苦悩する。満州事変を非難する国際世論に反発した日本は国際連盟を脱退し孤立しはじめるが、治五郎(役所広司)らは粘り強くオリンピック招致を目指す。
イッセー尾形の「ね」
これまでイッセー尾形演じる永田秀次郎を見ていて、正直なところ、この役は彼でなくともよかったのではないかと思っていた。
イッセー尾形の演技は、飄々とした雰囲気(永田は青嵐という名を持つ俳人でもあった)の中に、非常時の東京市長にふさわしい風格を感じさせるものであり、けして悪くなかった。でも、わたしの知るイッセー尾形は、エドワード・ヤンの「ヤンヤン夏の想い出」のプログラマにしても、ソクーロフの「太陽」の昭和天皇にしても、静かなたたずまいの中に何を考えているのかわからない得体の知れなさと、ときおり漏らす稚気を併せ持つ怪優であり、少なくともこれまでの永田秀次郎は、彼が演じるにしては、あまりにストレートにいい人過ぎたのである。
そのイッセー尾形の魔が、今回の冒頭でようやく発揮された。彼は前畑秀子の銀メダルへの落胆を語る台詞で繰り返される「ね」という語尾に、老人特有のねちっこさと稚気を埋め込んだのである。
「あなた〜なぜ金メダルを取ってこなかったんだね〜」
「ね〜」で声を裏返すときの、駄々をこねるようないやらしさったら! ここからイッセー尾形ならではの、粘っこい「ね」攻撃が始まる。「たったひとかきだよ。たった10分の1秒の差で、2着になったそうじゃないか〜。なぜ1着じゃないんだね〜」「分かっとるよ。日本記録を6秒も縮めたと言いたいんだ、分かっとる。でもだったらなぜ、もう10分の1秒縮めて、金メダルを取ってこなかったんだね〜」。
騒動に気づいてやってきたマーちゃんに叱咤され、岸清一に「のびたうどん」とまで罵倒され、「申し訳ない」とすっかりしょげてしまった永田市長は「ほふ〜」と息をつく。その息の付き方がまたなんとも、イッセー尾形にしかできない間の取り方だ。そしてこの吐息で心を入れ変えたかと思った永田市長は、なおも「ね」を手放さない。
「ただね、期待してたのはね、私だけじゃないんだ」「全国民がね、君を応援してたんだよ。だから悔しいんだよ。分かってくれ」。
いまや彼の「ね」は、叱られて泣きべそをかきながら、なおも言い訳をやめない子供のいたいけさ、そのいたいけさに潜む小ずるさすら感じさせる。
この短いエピソードによって、永田市長のキャラクターの奥行きは一気に深まった。大東京の復興に尽力した大の大人は、頑是無い子供のようなわがままを隠し持っている。だからこそ、彼が部下の失態の責をとって市長を辞任する場面に、ただのいい大人にはない、不思議な哀れさが漂うのである。
河童の秀ちゃん発奮す
永田市長に理不尽な懇願をされ、国民からは山のような手紙をもらい、銀メダルに喜んでいた前畑秀子は当惑する。その彼女の夢枕に、亡くなった両親が立つ。十八才の前畑は、まだ自分の感情や欲望が自分でわからない。両親に、前畑は自身の気持ちを問う。「お父ちゃんお母ちゃん、うち、悔しいん?」父は即座に答える。「悔しいな!」
奇妙なやりとりだ。前畑はそれでもまだ、自身の気持ちがわからない。「わかれへんのよ、うちが何か言うより先にみんなが悔しい悔しいいうさけえ、なあ、教えて。うち、悔しいん? そない、金メダルが欲しいん?」母は妙に含みのある声で諭す。「秀子よぉ、一旦やり始めたことは、途中やめたらあかん」。「途中…? 銀メダルって途中なん?」。父母は同時に即答する。「途中よ!」。康すおんと中島唱子の応答は、味のある夫婦漫才のようだ。
気がつくと前畑は寝間着姿のままプールサイドにいる。寝間着姿なのに頭には水泳帽が乗っている。河童のマーちゃんがストップウォッチを持って叱咤する。せき立てられてあわてて寝間着を脱ぐと、どういうわけかその下にはすでに水着を着ている。急いでプールに飛び込んだ瞬間、前畑はがばっと飛び起きる。
夢だった。
夢から覚めたのだから、ほっとすればいいのに、前畑はまるでまだ夢の途中にいるかのように、ここからむしろ精神のスピードを上げる。「やらな!」いましがた見た夢が薄れる間も惜しんで立ち上がる。頭に乗った夢の記憶を、一滴もこぼしてはならぬ。河童や。河童の秀ちゃんや。前畑が、あわてて寝間着を脱ぐと、どういうわけかその下にはすでに水着を着ている。夢と同じだ。10分の1秒、10分の1秒。夢枕に立った両親のことばは、もはや前畑のことばになっている。ああ…悔しい!あー悔しい!悔しい悔しい! プールの扉を開け、湯をかぶり、プールサイドを手持ちカメラに向かってずんずん歩き、そこから決然と90度向き直って上白石萌歌が飛び込むまでのワンカットショットはすばらしい。ドラマが次のオリンピックに進むための推進力はこのカットによって生まれた。
岸清一の「ロサンジュレス」
そして今回の主役といえば、なんといっても岸清一だったのではないか。これまでどちらかといえば脇役に甘んじていた岸は、冒頭で永田市長を思い切り罵倒したかと思えば、天皇陛下の御前で御進講を行い、いつにも増して登場シーンが多かった。
ところで、その岸清一の台詞をきいて「んん?」といぶかく思った箇所があった。「思えば、昨年、ロサンジュレス大会で…」。御進講の翌年、体調を崩してベッドで静養していた岸は、ロサンジェルス大会のことを「ロサンジュレス」と発音したのである。岩松了が台詞を言い間違えたのか? いや、それなら撮り直すところだろう。
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