学校生活のなかで「あの子ずるいな」「あいつは自己中だな」と思うことはありませんか。「毎回授業に遅刻してきて、授業の進行が遅くなる」とか、「私はまじめに宿題をしているのに、なぜ私の宿題を写しているだけの人と、同じ点数なんだろう」とか……。
また、そういう他人に対する不公平感と同様に、自分をとりまく環境に対する不満や違和感もあるのではないかと思います。「授業の時間が長すぎる」とか、「存在する理由がわからない校則がやたら多い」とか。
でも、学校生活のなかで不公平感や違和感があっても、おそらくあなたはあまり大々的には言わず、がまんをすることのほうが多いのではないでしょうか。
もしかしたら、自分の違和感を大々的に表現したり、権利を主張する人のことを、「わがままだな」「空気読めよ」と思うこともあるし、素直に意見や不満を口に出す、そういう人もまたずるくて自己中だと感じてしまうかもしれませんね。少なくとも、私はそうでした。
だれかを「ずるい」と思うことも、不満や違和感を公にする人に対して「わがまま」と感じることも、よくあることだと思います。
でも、不満を表に出す人に対して「あいつはわがままだ!」と片付けて、自分自身はがまんしてしまうことで、わたしたちの生活する場所が今よりもっと窮屈で、苦しい場所になる可能性もある。がまんすることで、一時的に他人との衝突やモヤモヤをやり過ごせたかのように感じるかもしれませんが、じつは、それは自分の将来を縛っている行為でもあるのです。声を上げなかったせいで、未来の自分が好きなように振る舞えないのは、多分だれしもイヤですよね。
どうしたら、がまんせずに不満や違和感を口にすることで、ムカつく教室(やクソみたいな職場)をちょっとはマシなものにできるのでしょうか。このことを考えるために、もうすこし「わがまま」という行為について考えてみましょう。
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そもそも、「ずるい」「あいつはわがままだ」という気持ちはどうして出てくるのでしょう。
「ずるい」というのは言い方を変えると、自分と他人が平等に扱われていないことを、理不尽に感じることです。みんな同じクラスに通っていて、同じ年齢で、同じような授業料を払って学校に来ている。だとしたら当然「平等」に扱われるべきなのに、そうなっていない。そう思うから、「ずるい」という気持ちがわき起こってくる。
一方、「あいつはわがまま(自己中)だ」というのは、周りのことを考えず、自分のしたいように行動している人を見て感じることです。何か不平等なことがあって、それに対して不満を述べている人を見ると、「みんな同じようにがまんしているのに」とか「みんな同じ環境にいるんだから同じようにするのが当たり前」と感じる。
こう考えると「わがまま」をネガティブに捉える感情も、「ずるい」とじつは同じところに根を持っています。つまり「わがまま」も「ずるい」も、みんな一緒、平等であるべきだという考えが元になってやってきます。
みんな平等にテストの点数で合否が決まるはずの入試に、一生けん命勉強して合格した人は、スポーツがうまいとか、一芸に秀でているとか、そういうことを評価されて入学してきた人を「ずるい」と感じるかもしれない。ただ、「それって平等じゃない。そういう入試、やめたほうがいいんじゃないですか」と大々的に言う人も、それはそれで「わがまま」に見えてきませんか。
でもそもそも、ほんとうに私たちって「みんな平等」なのでしょうか。このときにあなたの頭のなかにいる「みんな」は一体だれで、「みんな」はほんとうに「同じ」で「平等」であるかどうか。このことについて、まずは考えてみましょう。
日本が30人の教室だったら
みなさんが「みんな」といってはじめに思い浮かぶのはだれの顔でしょう。家族、仲のいい友だちなどいろいろな可能性がありますね。大人になれば会社の同僚とか、人によっては会ったことのない人をイメージする人もいるかもしれません。
じゃあその「みんな」の中身について、もうすこし踏み込んで考えてみましょう。多くの人は学校のクラスとか部活を考えるかもしれませんが、家族でも近所の人でも大丈夫ですし、ネット上の友だちやSNS上のフォロー、フォロワーでも構いません。
ここでは同じクラスの人を「みんな」として考えますね。もし、あなたが日本の公立校ないし私立校に通っているとすれば、同じクラスにいる人は、同じ年で、髪の色は黒色。日本で生まれ育って、日本国籍を持っている人がまだ多いかな。恋バナをするとしたら、だいたいかっこいい/かわいい異性の話になるでしょうか。血縁関係のある、いわゆる「親」に育てられて、いまもその保護下にある人が多いかもしれません。その親御さんは、お父さんとお母さんから成り立っていて、どちらか一方、あるいはどちらも働いている、という想定をする人が多いのではないでしょうか。
ここで、次のデータを見てください。これは、専門家や専門機関が集めた各種データから、その割合を30人のクラスに当てはめてみたものです。
日本が30人の教室だとしたら
- ひとり親世帯(母子のみ、父子のみの家庭)の人は2人(厚生労働省調査、2012年)
- 発達障害の可能性がある人は2人(文部科学省による全国の公立小中学校調査、2012年)
- LGBTの人は3人(電通ダイバーシティ・ラボによる調査、2018年)
*LGBTはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字を並べた略称 - 貧困状態にある人は5人(厚生労働省調査、2013年)
*「相対的貧困」の割合(「相対的貧困」については後の章で詳しく説明しています) - 世帯年収1000万円以上の人は3人(総務省による全国消費実態調査、2014年)
- 外国籍の人は1人(総務省、2018年)
ちょっと意外ではないですか。私は30人くらいの授業を持っていますが、これほど違いが隠れているとは感じていなかったので、改めて見てもびっくりする数字です。みなさんのクラスが実際にこうなっているわけではありませんが、ふだん同じように見えている「クラスのみんな」は、すこし見方を変えれば、このくらい異質な人の集団である可能性があります。
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私たちはみんなと同じ、つまり「ふつう」であることにすごくこだわる。みんなと同じでないと怖いし、「浮いてる」「目立つ」ことが嫌いだという人も多いのではないでしょうか。私も中学、高校時代は学校ですごく浮いていて、学校に行かなかった時期もそれなりに長くありました。そのころはやっぱり「自分はどうすればふつうになれるんだろう」と思うことがすごく多かったです。
ただ、図を見ていただくとわかるように、ほんとうは「ふつう」に見えるなかにも違いが存在しているのです。
ここでもうひとつ学校の例を出しますが、たとえば、学校の制服がすごく高価だったとしますよね。経済的に余裕のあるお家はすぐに制服を買えるかもしれないし、ご近所に卒業生のいる生徒さんは、先輩のお下がりをもらえるかもしれない。こういう人は制服の値段が高くても問題ないですね。
一方でそれがすごく負担になる人もいます。ご近所づきあいが円滑であったり、人に「お下がりちょうだい」と言えたり、制服代をポンと出せるお家ばかりではない。4月は引っ越したり、通勤の定期代がかかったりして出費もかさむ。
こういう人にとって制服は安いほうがいいに決まっているけれど、みんな「当たり前」と思いながらそのお金を支払っているから、「制服が高い」「もっと安く買えないの?」と意見を言うことが、自分のためだけの「わがまま」と思えてきてはばかられてしまう。
こうやってだれかがいろんな形でがまんをした結果として、4月には制服を着た30人の生徒が教室にきっちり揃っている(かりに制服を用意できなかった子がそのことを理由に欠席したとしても、他の人には「制服を買えなくて」という理由はなかなか言いづらいでしょう)。さらに言えば、制服を着て学校に来ている人は、自分と同じように「ふつう」だとみんなが思っているから、他の人の状況に思いが至らない。でも実際は、困ったときに他の人に頼れないような状況(「社会的孤立」と言います)の人も、貧困な人もけっこういるんです。
学生に聞くと、クラス内に経済的な格差なんてないと思っていた人が数多くいます。かりに格差があるという意見があったとしても、特別にお金持ちな人(高校生でブランド物を持っているとか、海外旅行にすごい回数行っているとか)が目立つ、という声があるくらいで、「貧困」の側に気づく人はなかなかいない。それは、中学や高校という空間がいろんなでこぼこした差異をならして均一にし、そのうえで教育や知識の提供を行うところだからなのですが、家や学校の外に出ても「目に見えてかわいそうな人」はそれほど見たことがない、というのが、みなさんの多くの共通認識なのではないでしょうか。
みんな同じように見えているけれど、それは一人ひとりが周囲に合わせるように——がまんをしたり、悩みを言わなかったり、自分について語らなかったり——相当努力をした結果そうなっている。だから「ふつう」に見えているだけで、その「ふつう」の表面を一枚めくったら、一人ひとりまったく違う環境で生活している。一見同じに見える人たちは、みんな違うわけです。
みんな違って当たり前で、それぞれにそれぞれの生きづらさを感じている。一見同じに見えるけれど、ほんとうは違う人々のなかで、みなさんがイメージする「ふつう」は相当無理して維持されていることを、最初にわかってもらえればと思います。
(次回、『アルバイトを理由に授業に遅刻するのはわがまま?』は18日(金)の公開予定です)