もし、妊娠だったら。
再び、自分に問いかける。万が一、産んだとして、そうなったら、汐留店は誰が軌道にのせるのか? 来年は二十周年の記念フェアがあるし、合わせて従業員のユニフォームも替えなければならないし、エイジングビーフの店を企画するよう、上からいわれている。いろんな「案件」が頭の中でぐるぐる回る。深いため息をついた。
日付が変わろうとしている時間帯の薬局には、いろいろな人がいた。わざとらしく唇を突き出し、腰をくねくねさせてヴァセリンを手にとっている男。映画のブルーレイでも選ぶように避妊具を品定めしている若いカップル。
そう、避妊具。どうしてそれを使わなかったのだろう。今になって後悔がこみ上げてくる。
セックスをすれば、妊娠する可能性がある。そんな当たり前の事実が重くのしかかった。
妊娠検査薬を探して、店内を歩き回る。洗濯用洗剤、トイレットペーパー、目薬、脱毛フォーム、ハンドクリーム。あらゆる製品があるのに、肝心のものが見つからない。こみ上げてくる吐き気と戦いながら、視線を動かした。三人いる店員は全員男性で、妊娠検査薬が置いてある場所を聞きたくても、勇気が出なかった。
なんとか見つけて多めに買い、タクシーで自宅に戻る。
検査薬の判定が出るまでの、わずか一分の時間が長く感じられた。一分ちょっとたつと、容器には青いラインが見えた。結果は陽性、つまり、妊娠の可能性がある、ということだ。どうしても信じられない。追加で二回検査してみたが、結果は同じだった。
部長の言葉がよみがえる。
「もうすぐおれも立場が変わるはずなんだよな。当然お前もひとつ上がるから、そのつもりで」
産休をとっても、部長の肩書きはもらえるのだろうか。そんなことを思ってから、じゃあ私は産むつもりなのか、と自分に問いかけた。気を紛らわせるために、iPodをスピーカーに差し込んだ。
妊娠検査薬の説明書には、「陽性の場合は妊娠している可能性があります。出来るだけ早く医師の診断を受けてください」とある。ネットで産婦人科医院を検索した。会社から近すぎず遠すぎない場所で、女性の医師がいて、近代的な設備が整っているところ。三十分もキーを叩き続け、赤坂にあるクボヤマ・レディース・クリニックにたどりついた。完全予約制だった。
お湯をわかして紅茶のティーバッグを手にとったけれど、紅茶にはカフェインが入っている、と思い直す。産むというはっきりした意志があるわけではないのに、つい身体を気づかってしまう。
テレビのリモコンを操作した。音は消したまま、あれこれとチャンネルを変えてみる。ナッツを口に放り込む。
子供を産んで、愛おしく感じられなかったら、どうしよう。
大きな孤独を受け入れてまで手にした自由に、どれほどの価値があるだろう、と思った。実際の桜子は、決まった時間に電車にのり、会社から与えられた仕事を、与えられた以上に働き、自分の時間などごくわずかである。旅行に行きたくなっても、すぐに旅立つことなど出来ないのだった。
翌日はずっと眠くて仕方がなかった。それでも山のようにアポイントが入っている。汐留店のオープンまであとわずか。やっと完成したチョコレート・パスタの試食もあった。こんな状態で試食ができるかと不安だったが、桜子はあっという間に山盛りのパスタを平らげた。他の社員たちは、おおむね好意的な感想を口にしながら、味わっていた。
クボヤマ・レディース・クリニックの窪山先生は、美しい先生だった。白衣や束ねた髪型が、端正な顔立ちを引き立てている。年齢は、桜子より少し若いぐらいだろうか。若く美しい女性なのに、母親のような包容力を感じさせるたたずまいだった。
検査が終わり、窪山先生はいった。
「妊娠してますね。九週目です」
桜子は助けを求めるように、言葉を絞り出した。
「私、未婚なんです」
診察の前に桜子が書いた書類に目をやり、先生は答える。
「そうみたいですね」
淡々としているが、冷たい感じではなかった。書類から視線を動かし、しっかりと桜子の目を見据えていった。
「おめでとうございます」
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