出世をとるのか、出産をとるのか

酔った勢いで同じビルに勤める26歳の 岩瀬と 2度にわたって体を重ねてしまった、40歳の桜子。これっきりにしようと思いながら、大学時代の友人・重美とランチを取っていると、桜子は強烈な吐き気に襲われる。もし、妊娠だったら。その夜、不安が胸に広がり薬局に駆け込むと……。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤とそれぞれの人生の選択を描いた8つの短編集『産む、産まない、産めない』より特別公開。

もし、妊娠だったら。

 再び、自分に問いかける。万が一、産んだとして、そうなったら、汐留店は誰が軌道にのせるのか? 来年は二十周年の記念フェアがあるし、合わせて従業員のユニフォームも替えなければならないし、エイジングビーフの店を企画するよう、上からいわれている。いろんな「案件」が頭の中でぐるぐる回る。深いため息をついた。

 日付が変わろうとしている時間帯の薬局には、いろいろな人がいた。わざとらしく唇を突き出し、腰をくねくねさせてヴァセリンを手にとっている男。映画のブルーレイでも選ぶように避妊具を品定めしている若いカップル。

 そう、避妊具。どうしてそれを使わなかったのだろう。今になって後悔がこみ上げてくる。

 セックスをすれば、妊娠する可能性がある。そんな当たり前の事実が重くのしかかった。

 妊娠検査薬を探して、店内を歩き回る。洗濯用洗剤、トイレットペーパー、目薬、脱毛フォーム、ハンドクリーム。あらゆる製品があるのに、肝心のものが見つからない。こみ上げてくる吐き気と戦いながら、視線を動かした。三人いる店員は全員男性で、妊娠検査薬が置いてある場所を聞きたくても、勇気が出なかった。

 なんとか見つけて多めに買い、タクシーで自宅に戻る。

 検査薬の判定が出るまでの、わずか一分の時間が長く感じられた。一分ちょっとたつと、容器には青いラインが見えた。結果は陽性、つまり、妊娠の可能性がある、ということだ。どうしても信じられない。追加で二回検査してみたが、結果は同じだった。

 部長の言葉がよみがえる。

「もうすぐおれも立場が変わるはずなんだよな。当然お前もひとつ上がるから、そのつもりで」

 産休をとっても、部長の肩書きはもらえるのだろうか。そんなことを思ってから、じゃあ私は産むつもりなのか、と自分に問いかけた。気を紛らわせるために、iPodをスピーカーに差し込んだ。

 妊娠検査薬の説明書には、「陽性の場合は妊娠している可能性があります。出来るだけ早く医師の診断を受けてください」とある。ネットで産婦人科医院を検索した。会社から近すぎず遠すぎない場所で、女性の医師がいて、近代的な設備が整っているところ。三十分もキーを叩き続け、赤坂にあるクボヤマ・レディース・クリニックにたどりついた。完全予約制だった。

 お湯をわかして紅茶のティーバッグを手にとったけれど、紅茶にはカフェインが入っている、と思い直す。産むというはっきりした意志があるわけではないのに、つい身体を気づかってしまう。

 テレビのリモコンを操作した。音は消したまま、あれこれとチャンネルを変えてみる。ナッツを口に放り込む。

 子供を産んで、愛おしく感じられなかったら、どうしよう。

 大きな孤独を受け入れてまで手にした自由に、どれほどの価値があるだろう、と思った。実際の桜子は、決まった時間に電車にのり、会社から与えられた仕事を、与えられた以上に働き、自分の時間などごくわずかである。旅行に行きたくなっても、すぐに旅立つことなど出来ないのだった。

 翌日はずっと眠くて仕方がなかった。それでも山のようにアポイントが入っている。汐留店のオープンまであとわずか。やっと完成したチョコレート・パスタの試食もあった。こんな状態で試食ができるかと不安だったが、桜子はあっという間に山盛りのパスタを平らげた。他の社員たちは、おおむね好意的な感想を口にしながら、味わっていた。

 クボヤマ・レディース・クリニックの窪山先生は、美しい先生だった。白衣や束ねた髪型が、端正な顔立ちを引き立てている。年齢は、桜子より少し若いぐらいだろうか。若く美しい女性なのに、母親のような包容力を感じさせるたたずまいだった。

 検査が終わり、窪山先生はいった。

「妊娠してますね。九週目です」

 桜子は助けを求めるように、言葉を絞り出した。

「私、未婚なんです」

 診察の前に桜子が書いた書類に目をやり、先生は答える。

「そうみたいですね」

 淡々としているが、冷たい感じではなかった。書類から視線を動かし、しっかりと桜子の目を見据えていった。

「おめでとうございます」

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

妊娠、出産、育児、結婚、そして仕事。女性が自分で選択できる時代が、きっとくる。

この連載について

初回を読む
産む、産まない、産めない

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません