東海道を駿河路にかかってくると数多くの名所古跡がある。例えば三国一の富士の山。例えば三保の松原。例えば田子の浦。これらはいずれも歌枕といって大昔から歌の題材となった名所だが、そんな名所が駿河路にはたくさんある。
そんな数多い名所の中で清水湊というところは本当によいところだ。
米や金といった諸国の物資を満載した巨大な船、俗に云う千石船、というやつがひっきりなしに出たり入ったりしている。物と金が全国から集まってくる。
そうするとその物と金を目当てに人が集まってくる。そうするとその人気を当て込んでまた物と金が集まってくる。だから清水湊にはそうした物資を扱う問屋が建ち並び、荷揚げ荷下ろしの人足が集まり、その人足の口と腹を満たす料理屋、宿屋、遊女屋なども追々にできて、それはもう大層な繁昌だった。
そんな繁昌するところには運と度胸だけを頼りに浮世の荒波を乗りこえ、やがて土地にその人ありと言われるようになる人も現れる。市中を流れる巴川の港からとおおい、古くから開けるところへ立派な店を構え、自分はずっと清水に居り、上の許しを得て、独占的な立場で売り手と買い手の間に入ってたいへんに儲ける問屋の衆を横目に、新しく開けた、港近いところに居を構え、自ら船を所有して荒海に乗り出し、自ら現地で買い付けた物資を素早く売り買いして荒っぽく稼ぐって人で、駿河国安倍郡清水湊に住居をする三右衛門という人ははまさにそういう人であった。
おそろしく勇敢な人、と言えば聞こえよいが、別の言い方で言うとムチャクチャな人で、普通の船頭なら絶対に船を出さない、どうしてかというと沈むから。みたいな荒れた天候であっても船を出した。しかも船主である自分が船頭として船に乗り込んで。
「三右衛門さん、やめときなされ。こんなときに船を出したら必ずや難船破船する」
そう言って止める他の船主に三右衛門は斯う言った。
「関係ねぇよ。ぶっ殺す」
そうして三右衛門は敢然と出港し、一か八かの投機的な利益を手にしたのである。だからいつしか清水湊の人は彼のことを、雲不見三右衛門(くもみずさんえもん)と呼ぶようになった。
雲なんて見ないで船を出すからである。
そんなことだから船を沈めてしまったこともある。
ある時(年代がはっきりしない)、三右衛門が伊勢に向かって船を出したところ、颱風の直撃を食らった。船は波と風に翻弄され、高い山のてっぺんに押し上げられたかと思うと次の瞬間には谷底に突き落とされる、なんてことが続き、その衝撃で船の到るところが毀れて、水が船に入ってついに船は積荷とともに沈没した。
三右衛門以下十四名の水主(かこ)どもは全員、艀舟に乗り移り、波濤の間を木の葉のように漂い、なんとか颱風をやり過ごした後も十一日間、漂流した。
この間、水も食糧もなく、一同、立つこともできなくなり、寝っ転がって、真っ暗な夜の海を漂いながら、ただただ嘆き悲しんでいた。
この有り様を見てひとり立っていた三右衛門は一同を叱って言った。
「なんだなんだ、てめぇたちゃ、揃いも揃ってなんだ。あれしきの波風ですっかり意気地をなくしちまいやがって、てめぇたちゃ、それでも船乗りか。そんなに波風が恐えなら船乗りにならないで馬方か駕籠担きになりゃあがれ」
一同は三右衛門に言った。
「三右衛門の親方、あっしら別に波風は恐かねぇ」
「じゃあ、なにが恐ぇえんでえ」
「なにも恐かねぇ。ただ腹が減って動けねぇんでさあ」
「そうか。わかった。腹が減って動けないのか。じゃあ、飯を食わせてやる」
「こいつはありがてぇ。なにを喰わせていただけるんで」
「俺を食え」
「どういうことで」
「俺を殺して俺の肉を食え」
「あわわわわ。とんでもねぇ。そんなことできません」
「ならば文句を言わないで起きて舟を漕げ」
「漕げたって、腹が減って一寸だって動けねぇ。それにこんな海の真ん真ん中で漕いだって仕方ありません。」
「だから起きろつってんだ。見ろ」
と三右衛門の指さす方を、一同、力なく上体を起こして見るなれば、遠くにチラチラ見えるのは人家の灯火(あかり)、
「あ、あれは」
「陸(おか)だよ」
「ああ、ありがてぇ、助かった」
「助かったってぇにはまだ早え、また風が出てきた。大きいやつがきてひっくり返りゃあそれまでだ。それが嫌なら起きて漕げ」
「合点だ」
というので一同、起きて力を振り絞って懸命に漕ぐ、そうしたところ言わぬ事ではない、これまでの長い船乗り暮らしのうちにも、見たことがないような大きな波が、もの凄い速さでやってきて、なにをする間もなく舟は波に呑み込まれた。
「ああああああああっ」
「ぎゃああああああっ」
「こわいいいいいっ」
一同は慌てふためき、そのうちの一人が櫓を取り落とした。「しまったあ、櫓を落としてしまったあっ」と思い、咄嗟に屈み、手を伸ばしてこれを探った。
もちろんこんな状況の中で手から離してしまった櫓がつかめる訳がなく、手はむなしく水を摑むはずであった。ところが。
その手が摑んだのは水ではなく砂であった。
「え? どういうこと?」
訝る男に三右衛門が言った。
「周りをよく見ろ。俺たちは大波に打ち上げられてもう浅瀬にいるんだよ」
男は周囲を見て目をぱちくりさせた。
その様子がおかしくで一同がどっと笑った。その中の一人が言った。
「きょとんとして可愛いぜ」
笑われた男はやっと状況を理解、歓喜して言った。
「うれしいぜ」
彼らは長いこと海上を漂い、栄養が欠乏して視力が低下していたうえ、精神的にも追い詰まって視覚に異常をきたし、況してや夜でもあったので、ごく近くにある灯火を遥か遠くにあるものと見ていたのである。
一同は歓喜した。嬉しすぎて夢ではないか、と疑う者もあり、そういう者は、お互いに名前を呼び合って、自分ひとりで見ている夢ではないことを確認した。
しかし一同は疲れすぎていた。舟から下りて浜まで満足に歩くことができず、半ば這うようにして浅瀬を進み、ようやっと浜に辿り着いて、これで助かった、と思うともう一歩も歩くことができず、そのまま浜に倒れ伏した。
やがて夜が明け、浜に倒れ伏す人の姿を認めた島の住人がやってきて、三右衛門らに、「おまはんたちは誰か」と緊張して問うた。三右衛門は言った。
「俺たちは清水の者だ。嵐に遭って小舟に逃れ、十日あまり漂流してここに流れ着いた。ここはなんというところだね」
男は答えた。
「八丈島だよ」
一同はまた喜んだ。
「八丈ならそんなには遠くねぇ」
「よかった。本当によかった。おらまた天竺あたりまで流されたと思ってた」
いくらなんでもそこまでは流されない。
そして三右衛門は、
「おい、誰でもいい、誰かお役人のところまでひとっ走りして、『俺たちは清水の船乗りで同勢は何名。こうこうこうこうこういう事情で流れ着きました。どうぞ清水へ帰れます様お取り計らい宜敷御願い申し上げ奉りまする』とこう願ってこい」
と言った。
ところが誰ひとりとして立ち上がれない。
「なんだ、その体たらくは」
と三右衛門は叱咤した。しかしその三右衛門もまた倒れていて、誰も彼もが、
「腹が減ったのと疲れたので、動かそうと思っても動きやせん。すみません。なんだか尻もいてぇし」
など言って動かない。
これを見て同情した男が近所の家に知らせに行き、集まった島民十数名が合力して粥を炊いてくれた。
「うまいいいいいっ」
「うれしい」
「梅干しとかあったらもっといい」
など言って喜び、これを食した。
ところが同じように餓えているはずの三右衛門はこれを食さない。これを不審に思ったひとりの島民が、
「おまえさまはどうして粥を食わぬのかね」
と問うたところ、三右衛門は倒れたまま傲然と、
「俺はこの歳になるまで粥なんてものは食ったことがねぇ。すまねぇが硬いおまんまを持ってきてくんねぇ」
と言い、「ない」と言われるや、無理に立ち上がり、案内を乞うて、ようやっと歩きながら島の役場に辿り着き、救助を願い出たと云う。なんとも剛情な男である。
三右衛門たちはその後、一年あまり島に滞在、その間に三人が病死、残った十一人が便船を得て清水に帰った。
そんなことになったのも元はといえば三右衛門の蛮勇のせいだが、人と同じことをやらないからこそ銭が儲かる。三右衛門は船主でありながら船長として船に乗り込んで投機的な商いを繰り返し、やがて清水では名の通った富家となった。この間、沈めた船は四隻に上る。
この雲不見三右衛門こそ誰あろう、海道一の大親分、令和の御代までその名を残す、清水港の次郎長の実の父親であった。
実の父親、と云うのには理由がある。
文政三年正月元日。雲不見三右衛門の三子として出生した長五郎、通称・清水の次郎長が生まれたとき、三右衛門とその周囲の者の間である話し合いがもたれた。
その話し合いがどんな話し合いだったか。
それについてはまた次回に申し上げることにいたしましょう。