何度こういう場面に遭遇したことか。いったい、いつ自分が子供を欲しがったというのだろう。いないからって、同情されたくはない。もう若くはなくて子供がいない女を前にすると、みんな結婚や出産の話題をどう扱っていいのかわからないらしく、とまどい、視線をそらす。
桜子は、子供を産みたいと思ったことは一度もなかった。友達の家に遊びに行って、部屋がおもちゃに占領されていると不思議な気持ちになる。何かわけのわからない異質なものに支配されている、というか。その光景を自分が背負い込むことにイメージがわかなかった。学生時代、つきあっていた男に、桜子って母性の足りない女だよなあ、と冗談ぽくいわれたことがある。彼のいう通り、母性という当たり前のものが、自分には足りないのかもしれない。
百合香は気まずそうな顔でコーヒーを飲んでいる。百合香だって、ついこのあいだまで、よけいな気を使われる立場だったのに。
その日は、めずらしく山形部長に夕食に誘われた。
「鮨でも行くか」
連れて行かれたのは昼と同じ店だった。桜子はそんなことはおくびにも出さず、明るい声でいった。
「嬉しい。お鮨、久しぶりです。ありがとうございます」
まず桜子が部長のグラスにビールを注ぎ、部長が桜子のグラスにビールを注ぎ返す。
「坂下、汐留の件、大丈夫だろうな? シロウトから募集した新メニュー、あれ、どうなってんの?」
翌日の午前中には管理職たちの定例会がある。大雑把な様子を聞き出し、さも自分が手掛けているように発表するつもりだろう。桜子は、そのことに不満を感じるほど若くはなかった。実際に仕事の充実感を得ているのは、自分のほうだ。それを知らず、出世しか頭にない部長をかわいそうに思う。
寒ブリの刺身に箸を伸ばしながら、予想をはるかに超える応募総数だったことや、チョコレートソースを使ったパスタを考案中であることを、かいつまんで話した。
「チョコレート? パスタに?」
「はい。チョコレートといっても、チョコレートの原料を使った料理専用のものです。メキシコ料理では、鶏肉にこのソースをかけたメニューは定番です。それを少しアレンジして、ひき肉とからめてみたらどうかと思いまして」
「おれには、よくわからんな。大将、どう思う? チョコのかかったパスタ」
カウンターの向こうで、白髪の男が苦笑いしている。
「さあ。私、パスタなんていただく機会がありませんからねえ」
それから部長と大将の世間話になった。桜子はおもしろそうに聞いているふりをしながら、頃合いを見計らって、話題を新メニューに戻した。
「次の試食は、部長もぜひ参加なさってください。私はメキシコ料理店に研究にいってみますので。来週初めにはチョコレートの業者が三社、プレゼンに来ます」
「わかった。坂下はほんとに頼もしいなあ」
そういって、徳利に手を伸ばした。部長の顔はかなり赤くなっている。
「ところでさあ、お前は、まさかと思うけど、ないよな?」
「何がですか?」
「あの子みたいなやつ。沢口のことだよ」
「ああ、寿退社ってことですか。まさかあ。そんな願望もあてもありませんよ」
「すまんすまん。坂下をその辺のおねーちゃん社員と一緒にして悪かった。まったくさあ、女はなんかあると、平気で仕事を途中でほっぽり出しちゃうから、信用できないよなあ」
おねーちゃん社員というのは、部長がたまに使う、彼なりの差別用語だ。桜子が適当なあいづちを打っているので、部長はすっかり油断したらしく、いかに女は使えないかを脈絡なく語り出した。
「だいたい、女はさ、子供ができるとそれが一番になっちゃうだろ。仕事に身が入るわけないんだよな。産休だの育休だのって一年も休んだりしたら、もういろんな状況が変わっちゃうわけですよ。死ぬ気で仕事するなら、結婚とか妊娠で気を散らすなって話さ」
嫌な気持ちになった。女が子供を産まなければ、あんただってこの世にいないでしょう、といってやりたかった。口には出さないけれど。
「坂下、お前は、おれが唯一見込んだ女だ。おれに続くのは、お前しかいないと思っているから」
芝居がかったものいいで、赤い顔をこちらに近づけた。
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