ニュージーランド人の熱きオールブラックス愛
ニュージーランド。 南西太平洋に位置し、人口は495万人。人間より羊の数のほうが多いとまで言われる、こぢんまりした国である。この国にラグビー代表チーム・オールブラックスが組織され、ニュージーランド人の誇りとなっている。私が出会ったニュージーランド人は、口をそろえて言ったものだ。
「私たちニュージーランド人にとって、ラグビーは文化であり宗教。そして、生きていくうえで欠かすことのできないもの」
一度ニュージーランドを訪ねれば、誰でもそれが単なるレトリックでないことを理解できるはずだ。
まず、国の玄関とも言うべき空港。そこに掲げられた広告で目につくのは、アイドルやモデルではなく、オールブラックスの選手たちである。さらに、各家庭にあるカレンダー。年始めのカレンダーには、何よりもまず、オールブラックスの年間試合予定日が記されるのである。そして待ち望んだ試合当日、多くの人が仕事を午前中で切り上げ、スタジアムに足を運ぶ。それがかなわない人は、友人宅でテレビ観戦したり、スポーツバーでビールを飲みつつラグビー談議に花を咲かせ、試合開始を今か今かと待ちわびる。 いざキックオフすれば、あらゆるビジネス活動は「店じまい」だ。街は一気にゴーストタウンと化す。路線バスも、タイムテーブルどおりに来ることはない。バスの運転手だって、もちろん、オールブラックスの試合が気になるのである。
オールブラックスの試合がある晩に仕事をするニュージーランド人は、周囲から「愛国精神ゼロ」という烙印を押されると断言していい。 このようにオールブラックスという存在は、ニュージーランド人の生活の一部、心の拠りどころとなっている。普段はフレンドリーなニュージーランド人も、ラグビーのこと、オールブラックスのことになると、人が変わる。老若男女、すべてがだ。
けた違いな「勝利への期待値」
このようにニュージーランド人が愛してやまないオールブラックスは、団体スポーツ競技すべてにおいて、世界で最も勝率の高いチームだ。だからニュージーランドは、「オールブラックスは勝ってあたりまえ」という空気に満ちあふれている。その期待値の大きさはけた違いで、日本人が自分の好きなスポーツチームに寄せるものとは比べようもない。万が一にもオールブラックスが負けることなどあれば、国民は生きる気力を失ってしまう。これは、決して私の誇張ではない。
「オールブラックスが負けると、株価が下がる」 といった話さえ、耳にするほどなのだ。
期待値が大きいのは実績という裏付けがあるからで、オールブラックスは結成当時から常勝チームであり続けている。 その歴史を振り返ると、1892年にニュージーランド・ラグビーフットボール協会(現在のニュージーランド・ラグビー協会)が発足。その代表チームとして初めて国際試合をおこなったのは、1903年のオーストラリア戦だ。翌々1905年から始まった北半球遠征では、成績はなんと35戦34勝1敗。ちなみにこの代表チームが「オールブラックス」と呼ばれるようになったのは、この遠征からである。
それ以降100年を超える歴史の中で、ラグビー発祥の地であるイングランドを含め、世界すべての対戦国に勝ち越している。人口500万人に満たない小国から、なぜ、このような常勝集団が生まれたのか。その大きな理由として、ニュージーランド独自の民族的アイデンティティーがあるとされている。ヨーロッパ人、先住民マオリ、そしてアイランダーつまり各島嶼から移住してきたさまざまな民族が、お互いのアイデンティティーと文化を融合させ、ニュージーランド独自のラグビー文化を形成してきた。
ヨーロッパ人の緻密さ、マオリに生まれながらに備わる闘争心と強靭な精神力、そしてアイランダーが持つ鋼のような肉体。それらが融合することにより、ニュージーランドのラグビーは一気に世界の頂点に上りつめたとされる。だが、20世紀初頭ならその理由で納得できるが、オールブラックスが21世紀の今なお勝利し続ける理由は、それだけでは足りないと私は思っている。
では、ほかにどんな理由があるのだろうか。その一つが、ニュージーランドのラグビー環境のすばらしさである。ラグビー文化が根付くニュージーランドでは、男の子のほとんどが、生まれて歩みを始めた途端、おもちゃ代わりにラグビーボールをあてがわれる。そして、それを追って駆け回る幼児期を過ごした彼らは、物心がついたころには、オールブラックスの選手になることを夢見るようになる。ニュージーランドでは、子どもたちの夢を後押しするように、気軽にラグビーで遊べる環境が整備されている。どこの町にも、ラグビーのゴールポストを備えた公園があちこちに造られ、そのコート面は天然芝できちんと整備されている。
さらに、全国の小学校でラグビーの授業がおこなわれるほか、中学以降は、学校あるいは地域ごとにクラブチームが結成されている。ニュージーランド人にとって、ラグビーはいわば義務教育の一環なのである。各クラブの子どもはチームで才能が認められると、オールブラックスのジュニアに相当するユースチームに選出される。そこから一人また一人と、屈強なる「オールブラック」な戦士が誕生していく。 このような、頂点であるオールブラックスへと優れた才能が吸引されていくシステムが、最初からできあがっているのである。
すばらしき指導者たち
そしてこの環境をさらに充実させるのが、優れた指導者たちだ。 本書の冒頭(世界一の常勝軍団に学ぶ、ビジネスと人生の勝ちグセのつけ方)でも述べたが、1989年、早大の三年生だった私は、ニュージーランド出身のラグビー指導者グラハム・ヘンリーと出会った。彼はのちに、最強のラグビーチーム・オールブラックスの監督を務めることになる(2004~2011年)。ヘンリーは臨時コーチとして来日し、早大ラグビー蹴球部を指導してくれたのだ。私にとって、それはまさに運命的な出会いだった。彼から世界レベルのラグビーを学べたばかりでなく、彼の紹介によって、卒業後にニュージーランドでラグビーをするチャンスが与えられたからである。
ここで、グラハム・ヘンリーについて、少しだけ紹介しておきたい。 ヘンリーは2004年から2011年までオールブラックスの監督を務め、2011年、地元ニュージーランドで開催されたラグビーワールドカップでは優勝もしている。勝率の高いことで知られる名将だ。ただし、自身がオールブラックスのメンバーであったことはない。彼は地理と体育を教える教員であり、1989年に来日した当時は、ある男子高校の校長をしていた。早稲田が彼を招いたのは、選手としての実績ではなく、その卓越した指導力を期待したためだ。
このときヘンリーとともにコーチとして招かれたのが、ジョン・グラハムである。 彼は1958年から1964年にかけてオールブラックスに選出され、主将を務めた往年の名プレーヤーだ。我々はこの“黄金コンビ”の薫陶を受けたわけである。彼らは私たちに、本場ニュージーランドのラグビーに対する考え方、勝つために必要な練習方法、さらにはのちにオールブラックスが取り入れることになる革新的なラグビー戦術を教えてくれた。優れた指導によって、チームがどれほど変わるものなのか。私はそれを、いささかショッキングなかたちで経験している。今からそれを紹介しよう。