亜熱帯気候なので、日本のような四季がないとされる香港だが、それでも冬は来る。屋台の店先には「粥」や「煲仔飯」などと書かれた幟が掲げられ、大きな鍋から立ち上る白い湯気が目立つようになった。風の強い日も多くなり、夜になると肌寒く感じることもある。
椅子から立ち上がり、窓際に近寄った鮫島は外の風景を眺めた。すでに日は落ち、列を成した屋台から放たれる光が、裁判所のフェンス越しに眩しく瞬いている。
──ここに来て、もう半年か。
六月に日本を発ってから、鮫島の香港滞在は半年になっていた。
「ダートマス・ケース」が結審してから約一週間後、大阪弁護士会から帰国命令が届いた。香港での戦犯裁判も数が減ってきており、残っていても新たな仕事は割り振られないと判断したらしい。鮫島と河合の乗る船は一週間後になるので、それまでは自由に過ごしていいという。
──その間、観光でもしろというのか。
五十嵐の死が間近に迫っている今、そんなのんきな気分にはなれない。
──この無念を、俺はずっと引きずっていくことになる。
そんなことを思っていると、ノックの音が聞こえた。オーダリーが夕食をどうするか聞きに来たと思った鮫島は、何も考えずにドアを開けた。
そこに立っていたのはバレットだった。
「鮫島さん、よろしいですか」
バレットは、公判終盤の姿勢とは一変した控えめな態度で目を伏せていた。
「何の話だ」
「お別れを言いに来ました」
──そういうことか。
戦犯裁判が減るに従い、イギリス軍も香港に滞在する法務関係者の帰国を早めようとしていた。風の噂では、「ダートマス・ケース」の裁判長を務めたアンディ・ロバートソン中佐も、すでに帰国の途に就いたという。
「分かった。入れ」
鮫島はバレットを導き入れると、執務机を挟んだ位置にある椅子を勧めた。
「鮫島さん、今回のことは──」
「もういい。終わったことだ」
話を遮られたバレットは黙ってしまった。その長身が逆に所在なげに見える。
「紅茶でも飲むか」
「はい。いただきます」
「飯は食ってないな」
「ええ──」
鮫島は内線でオーダリーに紅茶とサンドイッチを頼んだ。
「香港はいいところだな」
「はい。私も気に入りました」
「いつの日か、また来るかい」
バレットが弱々しく首を振る。
「帰国すれば、もう来ることはないでしょう」
それは鮫島も同じだった。
「私も来ることはないと思う」
二人の間に沈黙が広がる。それを破るように鮫島が問うた。
「それでバレット、別れの挨拶だけを言いに来たわけではないだろう」
「もちろんです」
バレットが眉間に皺を寄せて言う。
「帰国したら、私は別の仕事に就こうと思っています」
──そういう話か。
今回の公判が、バレットの決意を揺るがしたのは間違いない。
「かつて鮫島さんと河合さんと共に、『法の正義を貫こう』と誓い合ったことを、私は翻してしまうことになります。それをお詫びに来ました」
「自分の信じる道を行くのは悪いことではない。だが、なぜだ」
「法を扱うことが怖くなったのです」
バレットの顔は引きつっていた。
「確かに法は、人の運命を変えるものだ。だが法がなければ、この世は力だけが物を言う世界になる」
「もちろんです。今でも法の正義は信じています。ただ、それを自分が行使することに恐れを抱いたのです」
「つまり五十嵐さんを死に追いやったのは、自分だと思っているのか」
「そうです。法の正義を掲げて、五十嵐さんを死刑にしたのは私です」
「そうか」
鮫島の胸内から怒りが沸々とわき上がってきた。
「うぬぼれるのも、いい加減にしろ!」
「えっ」
「いいか。五十嵐さんを裁いたのは君でも判事たちでもない。五十嵐さんは法に裁かれたんだ!」
バレットが息をのむ。
そこにちょうどノックが聞こえ、オーダリーが顔を出した。
「よ、よろしいですか」
「ああ、構わん。ここに置いていってくれ」
オーダリーは怯えた目をしながら、執務机の上に紅茶とサンドイッチの載った盆を置く。その顔には、「イギリス人を𠮟り飛ばす日本人など見たことがない」と書かれていた。
──人を裁けるのは法だけだ。
それを信じることで、五十嵐の死は報われるのだ。
「失礼します」と言って、オーダリーが去っていった。
「鮫島さん、今回の件で、私は法を扱うことの責任の重さを痛感しました。法は恐ろしい武器です。使い方によっては人を殺すこともできるのです」
「だからこそ正義を信じる者たちが、法を守っていかねばならないんだ」
「では、あなたは自信を持って自分が正義だと言い切れますか」
バレットの舌鋒が突き付けられる。
「私は、そうありたいと思っている」
「誰もが皆、自分は正義だと思っています。日本の民衆は正義の戦争を信じていました。本国のイギリス人たちも今、戦犯裁判で日本人が次から次へと処刑されていくのが正義だと信じています。しかし、果たしてそれが正義でしょうか。私には正義の旗を掲げて、人を死に追いやることなどできません」
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