PHOTO:SHINTO TAKESHI
第30回 なぜ大人は酒を飲むのか
なぜ大人は酒を飲むのか。わたしはビール以外の酒が飲めないし、それだっておいしいと思えることはめったにないし、すぐに酔って頭が痛くなってしまう。でも、わたしにもそんな時期があった。あれはなんだったのだろう。上京してからの数年間。記憶があやふやになって、吐いてしまうまで飲んでいた時期があった。ちっともおいしいと思えない、酒屋のワゴンの格安の酒を買って帰って、ひとりでずっと飲んでいた時期がある。
そのあと二日間くらい動けなくなり、何も食べず、布団のなかで憂鬱な時間を過ごすことがあった。何もうまくゆかず、おなじかたちと色をした四角をあてもなく積みあげていくような茫漠とした毎日。いまもそれは変わっていないけれど、いまとは何かが少し違う、思いだすとやりきれなくなるような、たしかにそういう頃があった。もうおなじことはできないけれど、でもあれはたしかにわたしだったし、そうしないと一日だって生きていけないように感じていたこともたしかだった。
「もしかしたら、酔ってるあいだは、自分じゃなくなるような感じがするんかもしれん」しばらくしてから、わたしは緑子にそう言ってみた。どこか自分の声じゃないみたいな感じがして、わたしは何度か咳払いをした。
「人ってさ、ずうっと自分やろ。生まれてからずっと自分やんか。そのことがしんどくなって、みんな酔うんかもしれんな」わたしは思いつくまま言葉をならべていった。「生きてたらいろんなことがあって、そやけど死ぬまでは生きていくしかないやろ、生きているあいだはずっと人生がつづくから、いったん避難しなもうもたへん、みたいなときがあるんかもな」
胸のなかの息を吐きだして、わたしはあたりを眺めた。
店内放送がわたしたちには意図のわからない番号を呼び、店員たちがテーブルやワゴンのあいだを足早に歩きまわっていた。すぐ隣の席でまだ小さな女の子が母親に叱られていた。けれど女の子は何かが納得できない様子で、眉根を寄せ、頑なに口をつぐんでいた。高い位置でツインテールに結われた髪の毛の先が、小さな唇のはしにひっかかっていた。
「避難ていうのは、自分からかな」とわたしは訊かれもしないのに話をつづけた。「自分のなかにある——時間とか、思い出もひっくるめたもんから、避難するんかもしれん。なかには避難じゃ足りひん、もう戻ってきたくないって人もおって、自分で死んでしまう人もおるな」
緑子は黙ったまま、わたしの顔をじっと見ていた。
「でも死なれへん人が大半やな。だからお酒飲んで、避難をくりかえすしかないんかもな。お酒だけじゃないよな、いろんなことに避難して、何でこんなことしてるんやろって思いながら、もういややって思いながら、でもどうしようもないときあるな。でもずっとそれやるわけにはいかへんよな。体も悪くなるし。いつまでそんなんするん、早よ気づきやゆうて、まわりの人も心配してやきもきして、いろんなこと言う。みんな正しいことをゆうてくれる。でももっと、しんどなる」
緑子は遠くのものを見つめるみたいに目を細めて、わたしを見ていた。わたしは黙ったまま、水の入っていないコップを見つめていた。そして、だんだん自分の言ったことがまったくの見当ちがいだったんじゃないかという気がしてきた。緑子はペンをにぎったまま、動かなかった。
小さなこめかみに汗の粒がいくつか膨らみ、かすかに震えながら皮膚をつたっていくのがみえた。お待たせしましたと明るい声で言いながら、店員が食事を運んできた。大きな笑顔のその女性は、耳に金色の大きな輪っかのピアスをゆらしながら手際よく食べものをならべていった。ご注文はおそろいですね、と明るい声で確認すると、指先でレシートをくるりと巻いて円柱形の透明のホルダーにすとんと落とし、きびきびとした足どりで厨房へ戻って行った。わたしたちはそれぞれが頼んだものを黙々と食べた。
◯ お母さんが寝るまえに飲んでる薬があって、それはなにかと、おかあさんがおらんときにみたらせきどめシロップやった。最後にみたのはきのうの夜、やのに、今日はもう半分以上なくなってて、これぜんぶのんだのか。せきもでてないのにシロップ、なんのために。おかあさんは、最近どんどんやせてる。
こないだは、仕事の帰り、夜やのに、夜やからか、自転車でこけたってゆうてた、だいじょうぶ、ってききたかったけど禁止中やからゆえんでかなしい、なんでせきどめをのむのお母さん、とききたい、けがはせんかったかとききたい、痛くなかったかとききたい、それから、アメリカのほうにあるどっかのくにでは、自分とこの娘が十五歳になったら豊胸手術を、そこのお父さんがプレゼントすることがあるっていうのをテレビでみて、まじで意味がわからん、それからこれもアメリカのほうで、豊胸手術をした人は、せん人より、自殺する人が三倍も多いっていうのをみた。
お母さんはそのことを知ってるんやろうか、しらんかったら大変なこと、知ったら気持ちがかわるかもしれない、話を、ちゃんと話のときをつくらなあかん。なんでそんなことするんってわたしちゃんときかなあかん。きけるんか、胸の話なんか、できるんか、でもぜんぶ、ぜんぶちゃんとしたいねん。
緑子
「そろそろ帰ろか」
太陽は軌道に沿って西の空に沈みはじめ、そこらじゅうに落ちていた濃い影はいつのまにか見分けがつかないくらいに淡くなり、ときおり生ぬるい風がふわりと肌を撫でていった。人々は、手をつないだり、名前を呼んだり、くっついたり離れたりしながらゆっくりした足どりで退出ゲートにむかって歩いていた。
「緑子、もう思い残したことはないか」
地図を広げて、今日乗ったアトラクションをチェックしている緑子に声をかけると、こちらを見ないまま何度か肯いた。なんとなくできあがっているまばらな人の波にまぎれて、わたしたちもゆっくり歩いた。
右手に観覧車がみえた。青色が少し薄まった空はうっすらと黄色がかって、わたしは目を細めた。その大きな輪はここから見ると静止しているようにみえたけれど、もちろん観覧車は動いていた。空にも、時間にも、そしてそれを見ている人の記憶にも、何も残さないことを望んでいるようなその緩慢な移動を見ていると、少しだけ胸が痛んだ。
緑子もわたしの隣に立って、おなじように観覧車を眺めていた。しばらくするとわたしを呼ぶように腕をぺちぺちと叩くので顔を見ると、緑子は観覧車を指さした。乗るん? とわたしが訊くと、緑子は深く肯いた。
乗口ゲートには二組のカップルがいた。目のまえをゆっくり通り過ぎてゆくゴンドラにカップルの男の子のほうが先に乗りこみ、差しだされた手をとった女の子はスカートのすそをふわりと浮かせて上手に飛び乗った。
「じゃあ緑子、わたしそこの柵んとこで待ってるから行ってき」そう言ってわたしが移動しようとすると、緑子は何度も首をふった。なに、どうしたん、と訊くと、緑子は一緒に乗るのだというように観覧車を指さし、それからまたわたしの顔を見た。
「えっ、わたしも?」
緑子はきっぱりと肯いた。
「ほれ、わたしは乗りもの苦手やねん。ブランコもあかんねん。目がまわるねん」とわたしは説明した。「ついでに言うたら高いところも怖いねん。わたし飛行機も乗ったことないねん。これからも乗る予定ないねん。それでいいと思ってるねん」
そんなふうにわたしがいくら言っても、緑子は聞かなかった。わたしは胸のなかの息を大きくひとつ吐いてから観念し、係員から単独のチケットを一枚買って、緑子と一緒にゲートのなかに入っていった。ドアの開け閉めをする係員がひとりいるだけの大きな昇降台のうえで、緑子はなぜか数台の観覧車を見送り、そしてそこにどんな法則があるのかはまったく理解できなかったけれど、目当てらしいゴンドラが来ると小さなドアにするりと体を滑りこませた。
わたしはあわてて両手をまえにだしてバーをつかみ、頭のなかで小さく叫んでから体を押しこんだ。その瞬間、ゴンドラがごろんと大きくゆれて、尻もちをつくようなかたちでわたしは座席に座った。制服を着た係員がドアを閉めて鍵をかけ、いってらっしゃいと笑顔で手をふった。
お知らせ
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