PHOTO:SHINTO TAKESHI
第29回 わたしを生まなかったらよかったやんか
夏休みということもあり、遊園地はたくさんの人で賑わっていた。けれどごったがえしているというほどの混雑でもなく、昨日の東京駅のほうがよっぽど人口密度は高かった。すれ違う人々の距離は適度に保たれ、みんな楽しそうに笑っている。
家族づれ、まだ子どものような顔つきをした学生のカップルや、興奮のあまり叫び声とほとんど区別がつかない笑い声をあげている大人数のグループ。手をとりあってはしゃぐ女の子たち。このまま登山でもするのかというくらい重そうなリュックをかついで真剣な顔つきで地図を確認しながら歩く男性。たくさんの荷物をぶら下げたベビーカーを押しながら、好奇心に目を輝かせて少しでも先へ急ごうとする子どもたちの名前を大声で呼びつづける若い母親たち。
ベンチでアイスクリームを舐めている数人の老人もいた。地上では人々がめいめいに動き、食べ、待ち、そこにさまざまな音楽と歓声とが混ざりあい、ときおり頭上を走るジェットコースターの轟音が鳴り響いた。
緑子がどれくらい乗りものにのるのかは見当もつかなかったけれど、わたしには乗り放題つき無料券がある。受付でフリーパスと交換し、これ巻くで、と言うと緑子は黙ったまま、日によく焼けた細い腕をこちらに伸ばした。わたしは緑子の手首に特殊なテープの輪っかをつくって、太さがちょうどよくなるように慎重に測って固定した。緑子はつけ心地を確かめるように手首を動かし、それから太陽にかざすようにして目を細めた。
「これはもう、日に焼けるというより、焦げるやな」とわたしは言った。「がまんしてでも、黒の長袖着てくるべきやった」
今日の最高気温が何度になるのかは調べてこなかったけれど、三十五℃を優に超えているのではないかと思うくらいの暑さだった。太陽は昇りつめ、放熱をさえぎるものは何もなかった。売店のひさしに、ちょろちょろと水の噴きだす幼児たちの遊び場に、チケット売り場の看板に、人々の肌に、巨大なアトラクションの鉄の表面に、真っ白な日差しが容赦なく照りつけていた。
売店の横のベンチにはそろいのサイケ柄のホルターネックのワンピースを着た女性の二人組がいて、楽しそうに笑いながらお互いの背中に日焼け止めを塗りあっていた。
「わたし、いっかい焼けたら三年は黒いままやねん」わたしは二人組のほうを見ながら緑子に話しかけた。
「見て、ホルターネックのワンピ、かわいいな」
緑子はホルターネックにも日焼け止めにもワンピースにも興味はないようで、地図を見い見い、顔をあげ、アトラクションの位置を確認しながらときどきふりかえってこっちこっちというように合図をする。まるい額にはあげきれなかった前髪の産毛が汗ではりつき、頬がうっすら紅潮している。
「これ乗るん?」
緑子が最初に選んだのはバイキングという、あの巨大な船を模したもので、アナウンスを見れば二十分待ちとある。だんだん加速はするけれど基本的には前後に大きくゆれるだけで、見た目にはそんなに激しさはないように思えるけれど、それは大きな間違いだ。いつだったかブランコの巨大版だと思えば平気かもしれないと思って一度だけ乗ったことがあり、ひどく後悔したことがある。
うえまで振りあげられて降りてくるときの、みぞおちに打ちこまれながら広がっていくあの感じ。あの絶叫のエッセンスとしか言いようのないものには何か名前がついているのだろうか。せりあがってくるあの感覚はいったい体のどこに発生する、あれはいったい何なのだろう。それを思いだすたびに、高層から投身する人のことを想像してしまう。地面に叩きつけられるまでほんの数秒というけれど、あれが彼らが最後に味わう感覚なのだろうか。人々のわあっという短い叫び声のすぐあとで、地鳴りのような轟音を響かせてコースターが走りぬけていった。
売店で水とオレンジジュースを買い、名前を知らない木の陰のなかにあるベンチで待っていると、しばらくして緑子が帰ってきた。行くときと様子があまりに何も変わってないので、「え、あきらめた?」と訊くと、緑子は首をふり、「乗ってきたん?」と訊くと、面白くもなさそうに肯いた。「え、どう、普通?」と訊くわたしにはとくに答えず、つぎはあっち、というようにさっさと歩きだし、わたしはあわててあとを追った。
◯ 胸について書きます。わたしは、なかったものがふえてゆく、ふくらんでゆく、ここにふたつわたしには関係なくふくらんで、なんでこうなっているのか。なんのために。どこからくるの。なんでこのままじゃおれんのか。女子のなかでは見せあって、ジャンプしてゆれるのをくらべて、大きくなってるのじまんしあってる子もおって、うれしがって、男子もおちょくって、みんなそんなふうになって、なんでそんなんがうれしいの。わたしはへんか?
わたしは厭、胸がふくらむのが厭、めさんこ厭、死ぬほど厭、そやのにお母さんはふくらましたいって電話で手術の話をしてる。病院の人と話してるのを、ぜんぶききたくてこっそりちかよって、きく、子ども生んでから、っていういつものあとに、母乳やったので、とか。毎日電話。あほや。生むまえに体をもどすってことなんやろか、ほんだら生まなんだらよかったやん、お母さんの人生は、わたしを生まなかったらよかったやんか、みんなが生まれてこんかったら、なにも問題はないように思える。
誰も生まれてこなかったら、うれしいも、かなしいも、何もかもがもとからないのだもの。なかったんやもの。卵子と精子があるのはその人のせいじゃないけれど、でももう、人間は、卵子と精子、みんながもうそれを、あわせることをやめたらええと思う。
緑子
「オッケー、緑子、なんか食べよう」
わたしたちは地図で園内にいくつかある飲食コーナーや売店をチェックし、いちばん大きそうな場所を選んでそこを目指した。
昼食時のピークをとっくに過ぎていることもあって店内にはいくつか空席があり、わたしたちは店員に案内されてテーブルについた。緑子はウエストポーチから小ノートをとりだして右手のすぐそばに置き、店員が水と一緒にもってきたおしぼりでごしごしと顔をふいた。わたしたちはそれぞれメニューに顔を近づけて吟味し、わたしはかき揚げ丼を、緑子はカレーライスを頼んだ。
「緑子、強いんやな」わたしは感心して言った。
けっきょく緑子はここに着いてから二時間半のあいだ、一度も休憩することなく、ぶっつづけでアトラクションに乗りつづけた。できるだけ短い時間でたくさんの種類に乗れるように、緑子はそれぞれの待ち時間を素早くチェックし、じつに効率よくきびきびと動きまわった。
緑子が好んだのはいわゆる絶叫系といわれる激しいもので、カタカタと不吉な音をたててコースターが上昇していくのを見ているだけで、お尻の割れめがぞわぞわした。わたしはならんでいる緑子に手をふり、ときどき携帯で写真を撮り、そして手でひさしを作って、乗り物にベルトで固定されて空にむかってどんどん小さくなってゆく緑子の姿が判別できなくなるまで目を凝らした。
緑子のあとを小走りで追いかけ、高いところでくるくるまわったり、巨大なレールのうえをものすごい速さで駆けぬけていく緑子を遠くから見ているだけでへとへとになった。
「ほんで三半規管もすごいんやな。あんなけ乗っても、顔色ひとつ変わらんとは」わたしはコップに入った水をひとくちで飲み干してから言い、緑子は少し首をかしげてこちらを見た。
「三半規管は、ほれ、乗り物とかに酔う人っておるやろ。耳の奥にある三半規管ってとこで体のバランスをとってるねんな。んでまわりすぎたり車でうねうね走っていつもと違うリズムに一定の時間おったら、目とか耳とかから入ってくる情報と三半規管でもってる情報とがずれて、それでおえってなるねんな。緑子は酔わんの、まったく?」
緑子は水を一口飲んで、平気だというように肯いた。それから小ノートを開き、白紙の部分をひとしきり見つめたあと、ゆっくりとペンを動かした。
〈なんで大人って、お酒のむん〉
緑子はノートをこちらにむけたまま、しばらく動かなかった。なんで大人は酒を飲むのか。わたしはそれについて考えてみた。
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』は、絶賛発売中です。