PHOTO:SHINTO TAKESHI
第23回 卵の正しい捨てかた
巻子は返事をしない緑子にむかって話をつづけていた。夏子は小さい頃から本をようさん読んでて、難しい言葉もよう知ってて、すごい賢かったんやで。わたしは小説とかようわからんけど、すごいんやで、そのうちデビューして、作家になるんやで。
わたしは大きな嘘のあくびをひとつしてみせ、目尻に少しだけにじんだ涙を人さし指のはらですくって頬にこすりつけた。それからもう一度、大げさにあくびをしてみせて、ビールのせいか眠気がすごいな、などと言って話の流れを変えようとした。「ほんまに? わたしまだぜんぜん眠たない」と言いながら巻子は新しい缶ビールのプルタブをひっぱった。
「あー、わたしも飲も」
わたしは逃げるようにそれだけを言うと、ビールビールと独りごとのようにつぶやきながら台所へゆき、冷蔵庫のドアをあけた。
きちんとした冷気が保たれているのかどうかも心もとない冷蔵庫には、脱臭剤、味噌、ドレッシングが、持ち主にも忘れ去られた紛失物みたいにひっそりとならんでいた。かと思えばドアの内側には卵がびっしりと詰められており、さらにいちばん下の段にはパックで十個入りのものがまるまる残っている。
それは先週、まだ先に買ったぶんが残ってあることをうっかり忘れて、重ねて購入してしまったぶんだった。どちらかはもう腐っているかもしれない。日づけの記された紙きれを見ると、卵ラックにならんでいるぶんは明日まで、そしてパックのほうは昨日までとなっていた。
今日と明日でこの分量をたべるのは無理そうだ。仕方なく生ゴミ用の袋を作ろうとストックしてるスーパーのビニル袋入れをがさごそと探っても、適当な大きさのものがない。それにしても卵を捨てるとき——殻を割って中身を先に捨てるものなのか、そのまま投げ入れるのか、あるいは割れないようにそっと置くのか、その方法がいつもわからない。
卵の正しい捨てかた。そういうものがあるのだろうか。パック入りの卵を流し台の脇に置いたところで、なあなあ、と巻子の呼ぶ声が聞こえた。
「夏子ラッキー。わたしかばんにチーズおかき入ってた。まるまる」
「ナイス」
「せやけどなんかお腹すかん。なんかさっと炒めもんとか、なんか作ろか」巻子は台所の様子を窺うように首をくっとのばした。
「巻ちゃんごめん、うちなんもないんねん」わたしは言った。
「卵しかない」
「ほんまか」巻子はうーんと大きな伸びをして、あくびまじりの声で言った。「卵だけあってもなあ」
ちゃぶ台のうえには巻子とわたしが飲んだビールの缶がならび、それはかなりの数になっていた。自分の部屋でこうして酒を飲むというのもどこか不思議な感じがするものだった。ふだんはバイト仲間とごくたまに——数ヶ月に一度あるかないかくらいの頻度で飲みにいくことがあるくらいで、ひとりで家にいるときはまず飲むことはないし、そもそもそんなに酒が強くないのだ。
ワインや日本酒を飲むと頭痛がするし、そもそもおいしいと思ったことがない。かろうじて飲めるビールも、五百ミリリットルを二本も飲めば手足が重く感じられ、ぐったりしてしまう。しかし今日はどういうわけか、そんな量はとっくに超えているというのに、いっこうにしんどくなる気配がない。もちろん酔ってはいるんだろうし、とくべつ気分がいいというわけでもないけれど、それでもふだんの自分があまり感じることのないような未知の感覚が混ざりあっているようで、まだまだ飲めるような気がするのだった。
巻子に訊くと巻子もまだまだ飲めるというので、わたしはコンビニへ行って追加の缶ビールを七本とカラムーチョ、するめ、それからずいぶん迷ったけれど奮発して、六ピース入りのカマンベール・チーズを買ってきた。
玄関のドアをあけて靴を脱ぐと、巻子がこちらにむかってしーっというような仕草をし、緑子のほうを顎で示すのがみえた。緑子はビーズクッションのうえでノートをにぎりしめ、体を丸めたまま眠ってしまったようだった。いつも使っている敷き布団を押入れから出して部屋の隅にのばし、大阪からもってきて捨てずにおいたのをその横にならべた。
「緑子ははしっこにして、ほんならわたしが真んなかで寝よか」とわたしは言った。「巻ちゃんと緑子、隣って微妙なんやろ、朝起きて巻ちゃんが隣におったら緑子、発狂しそう」
わたしは緑子の手からノートをとってリュックサックのなかに戻し、緑子の肩を軽くゆさぶった。眉間に思いきり皺を寄せて目をつむったまま、緑子は無言で這って布団のほうに移動し、そのままばたりと眠ってしまった。
「こんな明るくても寝れるねんな」わたしは感心して言った。
「若いからな」と巻子は笑った。「でもうちらも基本的にずっと電気つけっぱなしやったろ」
「言われてみればそうやったな。いっつも電気ついてたな。おかんが帰ってくるまで明るくしてた。そっからごはん食べたりして、布団のうえで。ウインナ焼く匂いで起きたことあった」
「そうそう、ときどきおかん酔っ払ってて、起こされてチキンラーメン一緒に食べたわ」巻子は笑って言った。
「そうそう。夜中にウインナとかインスタントラーメンとか食べてた。せやからわたしあの時期、太ってたで」
「太ってたってあんたゆうてもまだ子どもやったやろ。わたし二十歳こえてたがな」巻子は首をふりながら言った。「あの時期、おかんも太ってた」
「太ってた」わたしは言った。「おかん、もともと細かったけど、あの時期めっさ太ってた。肉襦袢ってあのことよな。後ろのチャックはよ下げて、とかゆうて、よう笑った」
「おかん、あんとき何歳くらいやったんやろ」
「四十歳ちょっとくらいかなあ」
「死んだんが四十六歳やから、それから」
「そうそう」
「一気に痩せてもうて。人間がここまで細くなるんかって、なあ」
そこでなんとなく会話はとぎれ、ふたりともおなじタイミングでビールを飲んだ。ごくりごくりと喉がふたつ鳴って、それからまたしばらく黙った。
「この曲、なに」巻子は口を少しひらいたまま顔をあげた。「きれいな曲」
「これは、バッハの」
「バッハ、へえー」
何周したのかわからない『バグダッド・カフェ』のサントラからは、バッハの平均律クラヴィーア前奏曲一番が流れていた。アメリカの西、熱にけむる砂漠で、何もかもが倦んでいるカフェ。ある日とても太った白人の女性がやってきて、そしてみんなが少しだけ幸せになる話だった。終盤で黒人の男の子がこの曲を弾いていた。無口な男の子はずっとこちらに背中をむけていたような気がする。
どうだったろう。巻子は目をつむり、メロディにあわせて頭を小さく左右にゆらしていた。巻子の目の下にはくまというよりはへこみができていて、首は筋張り、ほうれい線はくっきりとハの字に入り、頬骨が思っていたよりも大きく突きでてみえた。死ぬまでの数ヶ月間、何度か入退院をくりかえした病院のベッドや家の布団のなかでみるみる縮んでいった母の顔がちらついて、わたしは反射的に巻子から目をそらした。
◯ お母さんとあまししゃべらず。っていうか、まったくしゃべらず。
純ちゃんもちょっとよそよそしい。わたしが純ちゃんを否定したように純ちゃんは思ったんかもしれんけどそうじゃなくって、おかしいと思っただけやねんけど。でも、説明するって雰囲気でもない。お母さんはなんか、最近ずっと豊胸手術、について毎日調べて、わたしはみんふりしてるけど、胸にふくらますやつを入れて、おっきい胸にするんやって。
信じられへん。だいたい何のためによ? 考えられへんし、気持ちわるいし、信じられへん。きもちわるきもちわるきもちわるきもちわるきもちわるきもちわる、きもちわる、テレビでみたし写真でもみた、学校のパソコンでもみたけど、切る手術やで。ざっくり切るんやで。切ったところからおしこんでいくんやで。いたいんやで。おかあさんはなんもわかってない。なんもわかってない。
あほやわ、あほすぎ、あほすぎ、なんで、モニターするとか電話ではなしてんのこないだきいて、モニターっていうのは顔が雑誌とかパソコンでみられるかわりに、ただでやってもらえるやつのことで、それもほんまにあほと思う、おかあさんのあほ、あほあほあほ、あほ、なんでやねんな。火曜日からめっさ目の奥がいたい。あけてられない。
緑子
お知らせ
パートナーなしの妊娠、出産を目指す夏子のまえに現れた、精子提供で生まれ「父の顔」を知らない逢沢潤——生命の意味をめぐる真摯な問いを、切ない詩情と泣き笑いに満ちた極上の筆致で描く、21世紀の世界文学。『夏物語』発売を記念して、明日、7月26日18時半から、ジュンク堂池袋本店にて、サイン会が開催されます(こちらから)。