「いいことなんか一個もなかったよ!」
男がふたり入ってくる。見るからに“おっさん”である。そのうちのひとり・中島忠幸が「どーも、カンニングです」と名乗ると、一方の竹山隆範が憮然とした表情のまま、開口一番大声を張り上げ言った。
「10年やっとります!」
中島が落ち着くように制止するも続ける。
「10年間芸能界おってねえ、いいことなんか一個もなかったよ!」
竹山はアルバイトばかりの生活であること、借金まみれであることなど、自分たちの現状に対してキレまくる。その矛先は相方にも及ぶ。
「もうお前絶対無理や。面白くないもん!」
相方の「蹴り殺すぞ」というツッコミには「蹴りだけで殺すのは技術が相当な技術が必要」と一転して冷静なツッコミ。「人間はいいやつですよ。でも全然面白くない!」と追い打ちをかける。
時には「ウンコします」とズボンを下げたこともあった。それは、中島が白血病で倒れ入院し、ピンで舞台に上がったときもそうだった。
「中島、お前がこのズボンを上げなきゃいかんやろ?」「ズボン上げに来い!」
竹山は舞台でキレ続けた。
「誰が売れてやるか!」
これがカンニングの「キレ漫才」だ。
どん底の中で生まれたキレ芸
竹山と中島の出会いは小学校3年の頃。クラスは別々だったが気の合う遊び仲間として行動をともにしていた。中学では同じクラスになったが、中島が少しグレはじめ、高校は別々の学校へ入学。だが中島は程なくして学校をやめてしまう。その後中島は大阪でアイドルの親衛隊をやっていた。当時のアイドル親衛隊は現在のイメージとは異なり、いわゆるヤンキー文化から派生したもの。だから中島は地元に子分のような後輩たちを連れてきたりしていたという。そして最終的に「田村英里子親衛隊長」まで昇り詰めたらしい。風貌からか、竹山と比べると、中島のほうがマジメで常識人というイメージがあるが、実はヤンチャで頭がおかしい破天荒なのはむしろ中島のほうだった。
吉本が福岡に事務所を立ち上げると、当時大学受験に失敗し予備校に通っていた竹山は、中島同様小学校時代からの友人であるケン坊田中とコンビを組み「ター坊ケン坊」としてオーディションに参加。同じく決勝に進出した博多華丸・大吉らとともに吉本にスカウトされ地元のテレビなどに出演し始めた。しかし、程なくして竹山はノイローゼ状態になり、仕事を飛ばし逃げ出した。逃げて捕まって戻ってを繰り返し、3回目で「お前もういいわ」となり、逃げるように上京した。
そこで中島と偶然再会し、やがてふたりで芸人を目指す。事務所を転々としながら仕事のない日々が続き、気付くとふたりは借金まみれになっていた。竹山の借金は金融会社13社から合計500万以上。絶望的な額だった。そんなどん底の中、マネージャーを交え「カンニング会議」が開かれる。そこで中島は結論を出した。
「このままやめたら何にも残らん、何か残してやめないと意味なくね?」
その日から1年後、同じ状況だったら芸人をやめる、と。そこからカッコつけるのはやめた。「借金ばっか、バイトばっか、誰が売れてやるか!」と客に怒鳴るキレ芸のスタイルが生み出されていったのだ。
『虎の門』と「カンニング」というコンビ
彼らをテレビの世界で最初に見出したのは『虎の門』(テレビ朝日)のチーフディレクター藤井智久だった。若手芸人のオーディションにやってきた彼らを見るなり爆笑した。「若手じゃねえじゃん」と。結果的にカンニングは藤井の「個人的な趣味で」番組に呼ばれることになる。だが、最初の収録で藤井は激怒する。竹山が本番にハンチング被って出ようとしたのだ。
「そんなきれいな衣装着てどうすんだ、小汚いふたりがTV出てるから面白いんだろうが!」
藤井はさらに続ける。
「まずかっこいいのかかっこ悪いのかどっちだ?」「かっこ悪いです」
「おじさんか若手かどっちだ?」「おじさんです」
「不細工なのか気持ち悪いのか?」「どっちも兼ね備えてます」
「センスある漫才なのか、ない漫才か?」「ないです」
「怒鳴るのか?」「怒鳴ります」
「そうすればおのずと形は見えてくんだろ、そしたらこんなジャケット着れねえだろ!」と【※1】。
藤井との問答で竹山は「カンニングっていうのはこういうコンビだ」という形をハッキリと理解することができたのだ。この番組の出演がきっかけになり、カンニングは独自のスタンスで「若手お笑いブーム」の中を駆け抜けブレイクを果たした。
「カンニング」という名を背負い、残酷な運命にキレ続ける
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