紙の本〉は本の最終形にあらず。書籍の音声化の可能性に触れる枝折

【第30回】
3月になり人事情報の噂話を集める枝折だが、自分が異動になるという話はどこにもない。逆に部長の岩田が異動するという噂が流れる中、枝折は岩田に誘われローヴィジョン(視覚に障害があり生活に支障を来す状態)関連の学会に出向く。

文学少女が編集者として一人立ちしていく姿を追いながら、変貌する出版界の明日を占うお仕事小説!

◆未来へのビジョン


 三月上旬。枝折(しおり)は人事についての噂を集めていた。服部(はっとり)仕込みの情報収集術で、少しでもヒントが手に入らないかと動き回っている。

 しかし自分が異動になるという噂はどこにもない。どうして自分の名前が出てこないのかと腹を立てる。

 逆に岩田(いわた)が出て行くという話は何度か聞いた。六年近く電子書籍編集部にいて、他の部署に行っていない。この会社の一般的な人事から考えれば、次の場所に配属されてもおかしくない。

 本館二階のトイレ。
 情報収集のために利用していた場所から、廊下に出た。

「春日(かすが)さん」

 背後から声をかけられて、うしろを向く。服部がいつの間にか立っていた。先ほどまで廊下にいなかったから、一緒にトイレにいたのだ。完全に気配を消していた服部に恐れをなしながら、枝折は挨拶をした。

「あなた、二階で評判になっているわよ。あの芹澤(せりざわ)編集長に、電子書籍を読ませた新入社員がいるってね。さすが私の一番弟子ね」

 服部は嬉しそうだ。

 そうした噂は、枝折自身も聞いている。社内で傍流でしかなかった電子書籍編集部。そこからヒット作が生まれようとしている。そのシリーズを手掛けたのは新入社員。彼女は、紙の編集部のトップを説き伏せた。

 枝折を見る周囲の目は変わった。仕事で成果を上げれば、人々の見る目が変わる。驚きとともに、身が引き締まる思いを味わっている。

 階段に向かい、服部とともに上る。
 四階に着いた。服部は、軽やかに廊下を駆けて、電子書籍編集部へと消えていく。枝折も扉を抜け、入り口に一番近い席に座り、仕事を再開した。

 Bスタイル文庫。BNBへの協力。過去作の電子書籍化の許諾については、まだ終わっていないが、優先順位をつけて交渉を重ねている。

 仕事をしていると、相変わらずの大きな声と足音が、廊下から聞こえてきた。

「春日、いるか」

 岩田が扉を開けるなり、自分の名前を呼んできた。

「いますよ。毎回、そんな大声で言わなくても、私のスケジュールは把握しているじゃないですか」

「おまえ、前から思っていたけど、けっこう口答えするよなあ」

「思っていることを、きちんと伝えているだけです」

「がはははは、まるで有馬(ありま)さんみたいだな」

 枝折は、怒りながら岩田の言葉を否定する。私のどこが、あの男に似ていると言うのだ。まったく。

「来週の金曜日、予定は空いてるか」

「飲み会でもあるんですか。仕事なら行きますよ」

「昼だよ昼。なにか仕事は入りそうか」

 グーグルカレンダーを確認する。予定はない。入りそうなイレギュラーな案件もない。

「行けます。どこに行くんですか」

「鶴見大学だ」

「大学ですか。なにをしに行くんですか」

「詳細はあとでメールで送る。午後一で訪問する。昼飯は鶴見駅の近くで食べよう」

「分かりました」

 枝折はパソコンの画面に向かい、来週金曜日の予定を入れた。


 鶴見駅で電車を降り、岩田と二人で、駅に隣接したビルの地下で食事を取った。

 駅を離れて道をたどる。目的地の鶴見大学では、ロービジョン関連の学会が開かれている。

 ロービジョンはlow visionと書く。視覚に障害があり、生活に支障を来している状態を指す。社会的弱視、教育的弱視とも呼ばれる。岩田にもらった資料を見て、初めてその言葉を知った。

「今日の目的は、そこで開かれている機器展だ。いろんな会社の商品が展示してある」

「それ、うちの部署となにか関係があるんですか」

「まあ、行けば分かるさ」

 いったいなにが分かるというのか。資料をざっと確認した範囲では、目の不自由な人向けの道具がいろいろあるみたいだった。

 大学の門を抜け、敷地に入る。一年前は、自分も大学生だった。どこか懐かしさを覚えながら、木々に覆われた道を進んでいく。

 白杖を突いている人をちらほらと見かけた。介助者と一緒に歩いている人も多い。

 建物に入ると、廊下にいきなり展示物が並んでいた。まばらに配置されたテーブルごとに、異なる会社がブースを構えている。触れて分かる地図、音声案内、そうしたものが説明のパネルとともにある。それらをながめながら、エレベーターの前まで来た。

「メインは四階、五階だ」

 岩田はボタンを押して扉を開く。枝折は一緒に入り、上を目指した。

 メインの会場に着いた。廊下にはテーブルが詰め込まれている。電子式の拡大鏡や点字プリンター。配色を変えて見やすくした絵本やカードゲームなど、見たことがないものが大量にある。

 岩田は何人かと挨拶しながら進んで行く。過去に何度か来たことがあるのだろう。

「こっちだ春日」

 呼ばれて岩田が指す方を見る。部屋の扉が開いている。あとについて入った。

 壁にはポスターが何枚も貼られていた。学会などで見る、研究発表用のものだ。枝折はポスターの前に立つ。

 Digital Accessible Information SYstem—略してDAISY《デイジー》。

 最初に、音声デイジーの作成についての報告を読む。音声デイジーでは、視覚が不自由な人向けに、ボランティアの人が本を読み上げて録音しているそうだ。

 その横にはテキストデイジーの説明がある。こちらは、音声合成ソフトを利用して、テキストを読み上げる。

 紙の本をスキャンして、文字認識ソフトにかけて、テキスト化したデータを利用している。一ページに数ヶ所の間違いが出るので、ボランティアを利用して校正をおこなっているそうだ。自分たちが古い本を電子書籍化する時と似ているなと思った。

「こっちを読んでみろ」

 岩田に促されて、一枚のポスターの前に立つ。一番上の表題を見て息を呑んだ。

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#電書ハック

柳井政和

小説が好きで出版社に就職した春日枝折だったが、配属されたのは電子書籍編集部。 紙の本から戦力外通告を受けた老作家、ネット民には刺さる準引きこもり作家、紙の本には目もくれないデジタル電子書店員たちとの出会いに戸惑う枝折。 やがて作家たち...もっと読む

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