二人で出版社をやりましょう」南雲の意外な提案に戸惑う漣野

【第26回】
一緒に電子書籍専門の出版社を立ち上げようという南雲の提案に戸惑う漣野。そんな折に、高校時代にふとしたことで傷つけてしまった元同級生・橋本香奈の今の姿を垣間見る。「彼女に届けるため、自分はより高い塔から紙飛行機を飛ばす」と誓う漣野だった。

文学少女が編集者として一人立ちしていく姿を追いながら、変貌する出版界の明日を占うお仕事小説!

◆塔を建てる


 原稿を書いているあいだは、他のことを忘れられる。自宅の二階の部屋でモニターに向かい、キーボードを叩きながら、漣野(れんの)は南雲(なぐも)の言葉を、頭から締め出そうとした。

 社長になって欲しい。日に二度、南雲からは電話がかかってくる。一度着信拒否にしたら、家までやって来て説得しようとした。

 —昔編集者だった頃、原稿を集めるために奔走していました。それと同じですよ。

 南雲は笑顔でそう言った。それ以来、面倒ではあるが電話を受け、そのたびに断るようにしている。

 漣野は顔を上げて、窓の外を見た。まだ薄暗いが、夜が明けそうになっている。けっきょく徹夜してしまった。いや、昼夜逆転しているから、徹夜と言うべきではないだろう。

 席を立ち、部屋を出る。階段を下りて台所に向かう。冷蔵庫の扉を開けて、麦茶を飲んだ。

 家は空き家のように静まりかえっている。母親が同じ屋根の下にいるのだが、顔を合わせることは滅多にない。

 原稿を書く手を止めたのは、場面転換をどうしようか悩んだからだ。

 小説は、出だしが最も難しい。冒頭、各章の頭、場面が変わった直後。そうしたところでブレーキがかかり、坂道をのぼるように力を振り絞らなくてはならない。

 勢いが止まった時の解決方法はいくつかある。
 遊ぶ。風呂に入る。外を歩く。いずれも思考の矛先を変えて、凝り固まった自分の頭をほぐすやり方だ。

 漣野は壁の時計を見る。まだかなり早い時間だ。外を歩いても、知り合いに会うことはないだろう。

 実家に住んでいる。高校時代の友人に遭遇する可能性がある。だから普段、日中は家に閉じこもっている。自分でも臆病だと思うが、どんな顔をして対面すればよいというのだ。

 漣野は自室に戻る。
 コートを羽織り、まだ暗い街へと足を踏み出す。

 早朝の空気は冷たく、小さな水滴が霧を作っていた。フードを被り、顔が見えないようにして、アスファルトの上をたどっていく。マラソンの男女。犬を連れた老人。何人かとすれ違いながら、当てもなくさまよった。

 散歩の途中で立ち止まり、メモ帳とペンを出して、アイデアの断片を記す。歩くことで脳が活性化され、ばらばらだった情報が繫がり、形になる。太古の時代からおこなわれていた思考の整理方法は、今の時代でも有効だ。

 どこを目指しているという意識はなかった。足に任せて進んでいた。ふと足を止め、周囲の景色に驚いた。漣野がいたのは、団地が連なっている場所だった。金網の向こうに、数棟の灰色の箱が並んでいる。

 学校に通っていた頃、何人かの友人が、この場所に住んでいた。そうした友人の中に、今でも夢に見る相手が一人いる。橋本香奈(はしもとかな)。漣野が傷つけてしまった相手。

 なぜここに来てしまったんだ。漣野は引き返すか迷ったあと、足を止めて金網の向こうをながめる。

 太陽が徐々に上がっていき、視界が色づきだす。霧が徐々に晴れ、灰と黒の世界が、様々な色彩の集合体へと変わっていく。

 葉の落ちた茶色の樹木。窓の向こうのカーテン。建物の入り口の掲示板。そこに貼られたポスター。
 そこには人々の暮らしがあった。穴蔵に潜んでいる自分とは違い、太陽の下で生きている人たちの営みがあった。

 橋本に会いたい。

 突然その衝動に突き動かされる。このままここで待っていれば会うことができる。これまで避けていたのが噓のように、距離感が縮まった気がした。

 心の中では、非現実的な光景が展開する。橋本が自分の姿を見つけて、声をかけてくれる。そして和解して、互いに語り合う。

 どれぐらいの時間、ぼうっとしていたのか分からない。いくつかの建物の入り口から、スーツを着た男女が出てきた。

 出勤の時間なのだろう。彼らは、漣野から離れた敷地の出口に向かう。金網の切れ目の門のような場所を、様々な人が通り過ぎていく。夢のような情景。フィルムを通して見る、遠い国の出来事のように思えた。

 一つの建物から女性が出てきた。

 見間違えるはずがない。橋本だ。彼女はスーツを着ていた。化粧をしていた。彼女は足早に歩いていた。そこには大人の女性がいた。

 夢が幻のように解けていく。

 橋本は学生ではなく、社会人になっていた。時が止まっていた自分と違い、彼女は社会の一員になっていた。自分のような脱落したネジではなく、社会に欠かせない歯車になっていた。

 どうして顔を合わせられようか。悲嘆が込み上げてくる。高校時代に引きこもった男が、当時のまま現れたら、彼女はどう思うだろうか。ニートという名のモンスターに遭遇したと感じるだろう。

 橋本は真面目な顔で、団地の敷地を出て、駅に向かって歩いていく。漣野はその背中を見送ったあと、金網に背を預けた。

 現実を見せつけられた気がした。いや、避けていた事実を目撃しただけだ。

 金網から滑り落ちて地面に尻を突く。ズボンを通して冷気が伝わる。そのまま膝を抱き、無為に時間を潰した。

 どうすれば、自分は橋本の前に立てるだろうか。朝日を浴びながら漣野は考える。

 原稿という小さな窓に向かうだけの生活。そこから脱して、社会との接点を持たなければならない。南雲の声が耳に響く。彼は、毎日電話をかけてきては、様々なことを語った。

 —漣野さんは言いましたよね。どうせお金が入らなくても書く人ですよねと。あの言葉を聞いたあとに思ったんです。自分は、出版社という塔がなくても、紙飛行機を投げ続けるだろうと。そして、塔は自分でも作れるんじゃないかと。

 漣野は空を見上げる。橋本は人生をまっすぐに進み、自分よりも高いところを歩いている。地の底にいる漣野が、紙飛行機を投げても、彼女の高さまでは届かないだろう。

 塔を建てる。

 そして、より高所から、橋本に届くように紙飛行機を投げる。

 漣野は立ち上がり、ゆっくりと歩きだす。自分はなにをしなければならないのか。漣野は、一歩ずつ前へ進もうと思った。


 法務局に書類を提出したあと、漣野は南雲とともに、近くの喫茶店に入った。

 向かいに座った南雲はコーヒーを頼み、漣野はチーズケーキのセットを注文した。店内にはスーツ姿の人間が多かった。法務局の帰りに寄っている者が多いのだろう。私服で来ている漣野と南雲は、少しだけ浮いていた。

「これで会社はできたんですか」

 手続きのほとんどを南雲に任せた漣野は、おそるおそる聞いた。

「いやいや、書類を出しただけですから。このあと補正日まで待ち、補正があるなら再度法務局に行き、定款を修正するなり、書き直すなりしなければなりません。その際には実印が必要ですので、また持って来ていただく必要があります。
 それと、晴れて法人の登記が完了したあとは、税務署への書類提出や、銀行の法人口座の開設、名刺の作成など、やるべきことが目白押しです」

 南雲の言葉に、漣野は気が遠くなる。

「ただ、漣野さんは、心配なさらなくてもけっこうです。こうした事務手続きは、基本的に私が進めていきます。
 それよりも漣野さんに、やっていただかないといけないことがあります。それは、小説をどう売るかという部分です。そこのところを考えて欲しいんです。
 私は裏方として書類仕事をしたり、人に会ったりします。漣野さんは、知識と経験を活かして、ネットで小説を売る仕掛けを、どんどん考案してください。私が実務に落とし込んでいきますから」

 気軽な調子で南雲は言う。しかし、果たして自分は、そうしたことができるのだろうかと疑問を持つ。

 いや、やらなければならない。

 小説家という肩書きを失ったニート。そこから脱して、会社の代表として働いている社会人になる。そして会社を梃子にして、自分の小説を売る。胸を張り、かつての友人である橋本の前に立てる人間になる。

「分かりました。やります」

 漣野は顔を上げて、南雲を正面から見た。南雲は嬉しそうに、笑顔を返してきた。

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#電書ハック

柳井政和

小説が好きで出版社に就職した春日枝折だったが、配属されたのは電子書籍編集部。 紙の本から戦力外通告を受けた老作家、ネット民には刺さる準引きこもり作家、紙の本には目もくれないデジタル電子書店員たちとの出会いに戸惑う枝折。 やがて作家たち...もっと読む

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