一故人

​堺屋太一 —日本の建て直しは女子プロレスから学べ

通産官僚として辣腕を振るい、その後は経済評論家・作家として活躍した堺屋太一。万博に注力し、マクルーハンなどとも論争した彼の生涯を、今回の「一故人」はたどります。

女子プロレスには官僚の嫌うパターンがそろっている

作家・評論家の堺屋太一(2019年2月8日没、83歳)は、2011年の東日本大震災の直後、女子プロレスラーの尾崎魔弓と雑誌で対談している(『第三文明』2011年9月号)。異色の組み合わせだが、じつは堺屋は知る人ぞ知る女子プロレスファンであり、なかでもひいきにしていたのが尾崎だった。

女子プロレスファンになったきっかけは1954年11月、アメリカから興行団が来日し、その試合を喫茶店のテレビで見たことだ。堺屋はこの年、大学受験に失敗すると、関西から上京し、予備校に通っていた。ちょうどテレビの本放送が始まってまもないころで、プロレス中継は人気コンテンツだった。とりわけ力道山の活躍に人々は熱狂したが、そのなかにあって彼は女子プロレスのほうに魅了される。以来、二浪して入学した東京大学を卒業後、通商産業省(通産省、現・経済産業省)に入ってからも、試合をよく見に行った。夫人(洋画家の池口史子)へのプロポーズも、女子プロレスを観戦後にしたという。その試合は、1976年2月に東京・日本武道館で行なわれたビューティ・ペア(ジャッキー佐藤とマキ上田によるタッグチーム)のデビュー戦だった。

尾崎魔弓は子供のころに見たビューティ・ペアに憧れ、女子プロレスの道に進んだ。堺屋が彼女を知ったのは1987年、初めてジャパン女子プロレスの試合を観戦したときのこと。そのとき善玉のキューティー鈴木に対し、悪役として戦う尾崎にすっかり魅せられる。《私は昔から美人で小柄で悪役のレスラーがあらわれないかと思っていたのですが、尾崎選手はその全てがあてはまりますから。それ以来、応援しています》とは、小渕恵三内閣の経済企画庁長官在任中、週刊誌の取材を受けたときの発言だ(『週刊ポスト』1999年2月12日号)。前年の入閣をきっかけに、この趣味は世に知られるようになっていた。同記事によれば、このとき、《日本経済建て直しにはプロレス的発想が必要》とも熱弁したという。

女子プロレスが建て直しの手本となるという持論は、尾崎との対談でも披露している。東日本大震災を、幕末と太平洋戦争に続く日本の「第3の敗戦」ととらえた堺屋は、そこから立ち直るためには女子プロレスの世界から学ぶべきだと主張した。

《女子プロレスは、それぞれの選手が個性を存分に発揮している点が面白い。型にはまらず自分に合ったやり方を見出している。それが自然のうちに調和する。実はこれが、「第三の敗戦」から立ち直る方策ではないかと思っています》(『第三文明』前掲号)

対談ではまた、女子プロレスの魅力について《シナリオがなく、ルールはあるが公然と反則もする。場外乱闘も日常茶飯事。このような統制の取れない仕組みは、官僚がもっとも嫌うパターンです(笑)。それらすべてが女子プロレスにはある。だから庶民にウケるのでしょう》と分析もしている。自ら官僚出身でありながら、官僚による統制をずっと批判してきた彼らしい見方だ。

堺屋は、《「趣味は何ですか」と聞かれたら、上品なほうでは「歴史と建築」、大衆的なほうでは「女子プロレス」と言うことにしてい》たという(『週刊朝日』2016年12月23日号)。前者は少年時代からの趣味である。ここで彼の生い立ちを振り返ってみたい。

見合いを断ったときの上司の一言から万国博覧会に没頭

堺屋太一(本名・池口小太郎)は1935年、大阪市に生まれた。父親は弁護士だったが、先祖は代々商家を営んできた。ペンネームの「堺屋太一」は、豊臣秀吉の大坂築城の際、堺から大坂に移住したと伝えられる先祖の名をそのままとったものである。江戸時代には両替商と木綿の集荷業を営んだ先祖は、大坂に本店を置き、木綿の集荷のため奈良の名柄(現・御所市)にも大きな商家を建てた。戦時中、堺屋はこの奈良の家へ疎開し、戦後も住み続けた。中学3年のとき受験準備のため転校した大阪市内の中学にも、その後進学した大阪府立住吉高校にも、ここから通っている。

終戦直後の1948年、堺屋は大阪・天王寺で開催された「復興大博覧会」を見物に出かけ、「博覧会は面白いもんや」とすっかり魅せられる。白黒テレビが展示の目玉だったこの博覧会で、彼が何より興味を抱いたのは、会場配置だった。見物の翌日から、さまざまな博覧会を想定して展示館や造園や通路を方眼紙に描き出しては、空想を膨らませる。そのうちに将来は建築家になろうと思うようになった。

建築家になる夢は、東大在学中に目を痛めて断念せざるをえなかった。だが、その後も自宅を設計するなど、彼にとって建築は格好の道楽となる。一方、博覧会への情熱が再燃したのは、1963年、通産省に入省して4年目の夏だった。上司の勧めで見合いしたものの、相手の女性が好みではなかった。そこで上司には「私にはまだしたいことがあるので」と口実をつくって断ったところ、「若いころには一つのことに熱中してみるのも悪くない。たとえば、日本で万国博覧会を開くとかね」という言葉が笑顔とともに返ってきた。上司からすれば何気なく口にした一言だったろうが、堺屋はこれに雷を打たれたほどの衝撃を受ける。

さっそく資料を片っ端から集めて読み漁る。そこで万博の歴史をひもとくうち、戦前の1940年に東京でオリンピックと万博が同時開催される予定だったのが、日中戦争により中止されていたことを知った。堺屋はこの幻に終わった万博を実現しようと決心する。

まず通産省内で議論を喚起すべく、堺屋が狙いをつけたのは通産省幹部の公用車の運転手だった。4ヵ月ほど毎日、運転手の控え室に赴いては、手製の資料を届けて万博の話をし続けた。これは、豊臣政権を支える五奉行のナンバー4にすぎなかった石田三成が、筆頭家老の徳川家康に立ち向かうに際し、とったという手法を参考にしている。三成は、まず行商人や僧侶に政権の危機を訴えて世論を喚起したうえ、次いで有力大名の側近を口説いて毛利氏や上杉氏を味方に引き込み、一時は徳川方を上回る兵力を集めた。

運転手をターゲットにした作戦は功を奏し、「万博の話に来る事務官」は評判となる。やがて通産省OBで参院議員だった豊田雅孝から声がかかる。豊田は戦前の商工省(通産省の前身)にあって、1940年の東京万博計画で担当課長を務めた人物だ。さらに大阪へ出張したときには、大阪商工会議所や大阪府・市の担当者に当地での万博開催を訴えた。堺屋太一の筆名を初めて使ったのも、万博招致を経済誌でアピールしたときだ(『エコノミスト』1964年6月30日号)。ちなみに誌面での肩書は経済評論家とされ、現役の通産官僚であることは伏せられた。

通産省内には万博反対の声もあった。当時の同省で主流だった重工業派からは「資源の乏しい日本では額に汗して働くべきで、博覧会など開く余裕はない」と批判された。ある上司からは、万博開催運動をやるなら辞表を書けとまで言われたという。

しかし前出の豊田議員の呼びかけもあり、政府が動き出し、大阪でも万博誘致の機運が高まる。1965年4月には、パリにある博覧会国際事務局(BIE)に対し、日本政府は1970年の大阪での万博開催を申請し、翌月、正式に受理された。1965年9月には対抗馬と目されたオーストラリアのメルボルンが開催を断念したため、日本開催が本決まりとなる。堺屋は通産省にあって万博の準備を仕切る実質的な責任者となり、多忙をきわめた。資金計画を立てて大蔵省(現・財務省)に承認させたのをはじめ、会場が大阪府の千里丘陵に決まると、用地買収のため地元で万博の説明に奔走する。

さらに1967年のカナダ・モントリオール万博を視察した関西財界の関係者から、「大切なのはテーマよりもコンセプト」という話を聞くや、コンセプトを考えた。コンセプトという言葉自体、日本ではまだなじみがなかったが、堺屋は「ようするに何を見せ、何を目指すのか、ということだ」と解釈し、「それならば『近代工業国・日本』以外にない」と答えを出す。第二次世界大戦後の日本は、めざましい経済成長をとげ、規格大量生産社会を実現した。堺屋は、万博でその成果を提示するのみならず、規格大量生産の世の中で人間性をいかに保つか、それを主張するというコンセプトを打ち出す。

アメリカ旅行から知恵が価値を持つ時代を予見

上司から「万国博覧会」という言葉を聞いて一人で研究を始めた堺屋は、それを実現にこぎつけるまで6年あまりかかわった。1970年3月から半年間開催された大阪万博は、入場者数は延べ6422万人と史上最多(当時)を記録。営業収支は192億円の黒字を出し、成功裏に終わった。堺屋は、こうした実績とあわせて、大阪万博から建築やデザイン、ファッションなど様々な分野で世界的に活躍する有能な人材が多数輩出されたことを高く評価する。

堺屋はこのあと官僚として、沖縄での国際海洋博覧会(1975~76年)や観光振興、新たなエネルギー技術の創出をめざした「サンシャイン計画」などに携わった。そのかたわら、綿密なシミュレーションにもとづく予測小説『油断!』(1975年)や『団塊の世代』(1976年)を発表し、たちまちベストセラー作家の仲間入りを果たす。1978年1月に週刊誌でスタートした自身初の歴史小説『巨(おお)いなる企て』の連載途中、同年10月には通産省を退官、本格的に作家・評論家に転身した。『巨いなる企て』は、大阪万博の発案時に手本とした石田三成を主人公に据えた作品だ。

堺屋はデビュー作『油断!』を刊行した翌年の対談で、こんなことを語っている。

《日本が輸出しているもので、それがないと絶対に世界が困るというものはない。鉄が安い石油化学製品が安いといっても、それは資源が安いにすぎない。労働集約的なものはみんな高い。造船といっても、鉄板ばかり使ったタンカーは安いが、軍艦とか客船はダメなんですよ。これは日本人の日本産業に対するイメージとは逆だけれども事実なんです。だから世界に対する日本のセールス・ポイントは何かというとむずかしい。(中略)だから日本がさらに成長するには、ひとりひとりの若者がもっている技術、技能、知識の量をアップする以外にないんです》(『週刊プレイボーイ』1976年6月15日号)

ちょうど第一次石油危機の直後で、それまで通産省が日本の基幹産業と位置づけてきた重工業に陰りが見えてきた時期だ。「日本がさらに成長するには、ひとりひとりの若者がもっている技術、技能、知識の量をアップする以外にない」という言葉には、それから10年後の著書『知価革命』(1985年)での主張の萌芽が見て取れる。

堺屋は1970年代末から80年代初めにかけて頻繁にアメリカを旅行し、大きな変化を目の当たりにする。そこでは製造業が衰退する一方で、旅行客はあふれ、また規制緩和によりカジノが増え、新しい起業も流行していた。彼はここから《規格大量生産の時代が終わり、新たに『知恵の時代』がはじまろうとしている》と読み取った(堺屋太一『堺屋太一が見た 戦後七〇年 七色の日本』)。これをヒントに、文明史の視座から書かれたのが『知価革命』である。堺屋は産業革命を3段階に分けたうえ、規格大量生産が生んだ第3次産業革命のあとに来る社会を、「知恵の値打ち(知価)が世の中の進歩と経済の成長をリードする社会」と定義した。

愛知万博での“挫折”

堺屋は通産省をやめてからも、たびたび博覧会に携わっている。1990年の大阪での国際花と緑の博覧会(花の万博)でダイコク電機の出展に協力したのに続き、大阪万博以来の大規模な国際博覧会となった1992年のスペイン・セビリア万博では、日本政府館と日本産業館のプロデューサーとして指揮をとった。このとき、日本政府館の設計に建築家の安藤忠雄を起用している。2010年の中国・上海万博では国際顧問に招聘され、日本企業が出展した日本産業館の館長も務めた。これらは成功事例だが、ここでは彼が関与したものの途中で退いたケースとして、2005年に愛知県で開催された日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)について見ておきたい。このときの“挫折”には、よくも悪くも彼らしさが現れていると思うからだ。

堺屋は愛知万博の計画当初、同県の設けた基本構想策定委員会の委員となった。1998年2月には、前年に発足した万博の運営母体である博覧会協会がシニア・アドバイザーを設け、堺屋はその一人に選ばれる。だが、この制度は、万博企画の中軸をより若い世代へと刷新するためのものであった。堺屋は同年5月には、先述のとおり小渕内閣の経済企画庁長官に就任(続く第1次~第2次森喜朗内閣でも留任)したこともあり、愛知万博からは遠ざかる。

それが2000年12月に経企庁長官を退いたあと、翌01年3月、博覧会協会に最高顧問として招聘される。いったんは固辞しながらも、同協会長の豊田章一郎(トヨタ自動車取締役名誉会長=当時)をはじめ地元政財界から三顧の礼を受けての就任だった。しかし、愛知万博の計画は、堺屋の経企庁長官在任中に大きな展開があった。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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a_tocci わが身の安全を守るためには決断しないほうがいい、という風潮も広まりました。決断すると、どこかで摩擦が起こり、失敗すると地位や名声が危ない。それを避けるためには、皆で先延ばしをしていればいい、ということになります https://t.co/5RaFQ7uI8W 3ヶ月前 replyretweetfavorite

a_tocci 戦後日本は「安全」を正義として、平和主義と世界最長寿の国をつくりあげた。しかし「安全」を重んじるがあまり、「自由」と「楽しみ」が正義ではなくなったと堺屋は指摘する。https://t.co/5RaFQ7uI8W 3ヶ月前 replyretweetfavorite

a_tocci 堺屋太一 ――日本の建て直しは女子プロレスから学べ|近藤正高 @donkou | 3ヶ月前 replyretweetfavorite

pol_and_eco 堺屋太一 ――日本の建て直しは女子プロレスから学べ|一故人|近藤正高|cakes(ケイクス) https://t.co/LZqGxt2MMT 3ヶ月前 replyretweetfavorite