◆忘れられない年
十一月の下旬。
電子書籍のデータ確認、販売計画の立案、電子書店への営業、月曜の会議への企画提出。そうした業務を縫っておこなわれる枝折(しおり)に任された数々の仕事。
既刊本の電子書籍化の許諾。春日文庫と岩田(いわた)に命名された電子書籍レーベルの作成。BNBに依頼されたリストの消化も、待ったなしで進んでいる。
今日ようやく有馬(ありま)に、校正済みの原稿データを送った。十二月末からBNBで展開する専売作品の第一弾をようやく納品できた。
最初の作品は中編四作。バーンネットの主力事業であるネット通販をテーマにしたものや、チャットで展開する恋愛小説など、同社の顧客に特化したラインナップになっている。
その第一弾に漣野の名前はない。BNB向けの原稿だけでなく、春日文庫の原稿も完成していない。ネット小説を見つけて訪問して以来、漣野(れんの)とは連絡が取れていない。
岩田には、漣野が本当に書きたいことを引き出すと言った。しかし、電話も繫がらないメールの返信もないとなると、どうしようもなかった。
ネットの炎上は、漣野の名前が出て、個人情報がさらされるところまで進んでいる。芹澤(せりざわ)が、電子書籍編集部に怒鳴り込んできたのは記憶に新しい。
「岩田、なにをやっている、漣野のあれをやめさせろ」
芹澤の苦情に、岩田はとぼけた顔で答えた。
「あれ、もしかして、おまえがモデルなのか? 書かれて困るようなことをしていたのか? もしそうなら、会社の評判を下げるんじゃねえよ。おまえが編集長になって、リストラだなんだと言って、大量に作家を切ったよな。あの小説と似たような話が、ぼろぼろと出てくるんじゃねえのか」
岩田と芹澤は三十分ほど言い争った。芹澤は捨て台詞を吐き、部屋を出て行った。
「騒動のおかげで、漣野さんの電子書籍がよく売れるなあ」
岩田はパソコンを見ながら呟いた。芹澤はまだわずかに残っていた漣野の紙の本を絶版にした。また、少なくない作家が、この機にと不満を訴えてきた。漣野の一件は、社内でも大きな問題になった。
漣野はこのまま消えるのではないか。
こうした騒動を起こした作家を、進んで使おうとする出版社はないかもしれない。商業作家としての漣野久遠(くおん)は死んだのかもしれない。
そう思うと同時に、本当にそれでよいのかという疑問も湧いてくる。漣野は、枝折が初めて仕事で会った作家の一人だ。漣野と南雲(なぐも)、その二人には特に思い入れがある。
自分のことを悪く書かれて腹を立てたが、今はもう憎んでいない。新入社員として至らない対応をした。不満も多かっただろうと思っている。
「春日さん。春日文庫、徐々に原稿が集まってきたみたいじゃない」
四階の自分の席で、来週の会議向けの資料を作っていると、服部(はっとり)が声をかけてきた。服部は、ネットの騒動などどこ吹く風で、陽気に振る舞っている。そのことが社内の重苦しい空気の中でありがたかった。
「ええ。十本集まったので、そろそろ販売計画を立てようと思います」
「なにか仕掛けは考えているの」
「コンプリートしたくなる、目次的なガイドを無料で配布する予定です。新潮社が夏にやっている新潮文庫の百冊みたいな奴ですね。集めるという意味では、スタンプラリーに近いですけど」
枝折はノートパソコンの向きを変えて、服部に草案を見せる。
「ははーん、これは古今(こきん)和歌集をモチーフにした部立てね。そういえば春日さん、大学では古典文学を学んだと言っていたわね」
服部の指摘に、枝折はうなずく。
古今和歌集は、平安時代前期に作られた最初の勅撰(ちょくせん)和歌集だ。編纂の中心人物だった紀貫之(きのつらゆき)は、千首以上の歌を分類して、そこに大きな世界を構築した。
四季の移ろい、人生の局面、恋の始まりから終わりへの変遷。大きなうねりの中で、それぞれの作品が輝くように配置されている。まさに編集の妙という奴だ。
上がってきた原稿は、そのままでは単体の力しかない。出版社が、著者と書店のあいだに入る意義を考えた時、それは売り方だろうと枝折は考えた。
読み方の提案。読む切っ掛け作り。
漣野が話したようなプラットフォームの提供は難しくても、大きな網を作り、読者へと投げることはできる。
「ねえ、春日さん。今そろっている原稿では、どれがおすすめなの」
服部は、枝折の手元を見ながら尋ねる。
自分が関わった原稿は、どれも子供のような愛おしさがある。一つを選べと言われても選びようがなかった。
「おすすめかどうかは分かりませんが、一番興味を持ったのは南雲さんの小説です」
「へー、どういう風に興味を持ったの?」
「これまでの作風と大きく違うんですよ」
枝折は服部に説明する。南雲に会ってから、彼の本は全て読んだ。最初に届いた原稿は、その頃のものとほぼ同じだった。しかしその後、原稿をやり取りするたびに、劇的に進化していった。
文体が変わった。リズムが変わった。文章全体の重さが減り、軽やかさが増した。
まるで若返っているようだと思った。
なぜそのような変化が起きているのか分からない。四月に会った時の、沈んだ南雲の姿から想像できないほど、小説全体に瑞々しさが行き渡っていた。
小説の内容は、文芸誌の編集部を舞台にした連作短編だ。一つ一つ書き起こしたようには見えない。まるで、大量の連載を書いたあとに、傑作選を作ったみたいだ。
これは売れそうだ。根拠はなかったが枝折はそう感じた。そして、この原稿を多くの人に読んでもらいたいと思った。
「へー、読むのが楽しみね」
服部は、目を輝かせて言う。
廊下から大きな声と足音が聞こえてきた。岩田だ。遠くからでもすぐ分かる。
「おいっ、春日」
部屋に入ってくるなり名前を呼ばれた。
「はい、なんですか」
大声で答える。
「来週の金曜の夜、電子書店の担当者たちとの忘年会がある。出られるか」
暗い気持ちを吹き飛ばすのには、ちょうどよさそうだ。グーグルカレンダーを見る。予定は入っていない。寂しい独り身なので、金曜の夜も真っさらな状態だ。
「大丈夫です。問題ないです」
「よし、俺と服部と春日で行く。服部、春日の介抱は任せたぞ」
「トイレまでコース、おうちまでコース、病院までコース。どれでも任せてください」
服部は敬礼のポーズを取る。
「ちょっと待ってください。どれだけ飲ませる気なんですか」
服部は冗談よと言いながら笑った。枝折は、服部の話は冗談に聞こえないから怖いんだよなあと思った。
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