作家・社会学者の鈴木涼美さん(左)と音楽家・文筆家の寺尾紗穂さん(右)が異色の初顔合わせ対談!
音楽は降りてくる。文章は能動的に
鈴木 文章っていつ頃から書き出されたんですか?
寺尾 本になったのは修論が初めて。川島芳子という人について書いたんですけど(『評伝 川島芳子 男装のエトランゼ』)。
鈴木 修士論文がデビュー作なのは私も一緒です。『「AV女優」の社会学』(2013年/青土社)は大学院の時に書いたもので、出版したのはけっこうあとなんですけど。日本経済新聞の記者をやっていて死ぬほど働かされていたので、なかなか文章を直す時間がなくて。
寺尾 論文は校正の作業が膨大ですよね。
鈴木 そう。だから手をつけずに1年間放っておいて、それからちょこちょこやり出して、本ができた時には入社して3、4年目になっていました。ところで音楽をつくるのと、文章を書くことって、表現として全然違うものですか? たとえば、今日は文章を書きたいとか、今日は音をつくりたいとかって、気分によって変わってくるんでしょうか。
寺尾 音はつくりたいと思って、つくっているわけではないんですよね。来た時に書き留めておくみたいな感じなので、文章を書くことのほうが能動的なものなのかなと思っています。
「エッセイは鼻歌的に書ける。音楽的かもしれない」(寺尾) 衣装 spoken words project
鈴木 音は降りてくるんですね。文章は降りてくる感じとは違いますか?
寺尾 エッセイにしてもちょっと硬いノンフィクションにしても、文章は「さあ、書くぞ」となって書くから、書きたいというのとは違うかな。
鈴木 私も言葉があふれてくるとか、そういう感じではなくて。
寺尾 そうだったら詩人になってるのかな?
鈴木 どうなんでしょうね。苦しいけど書かずにはいられない! という作家さんは、ドラマチックな感じがして羨ましいですけど、私は何回も文字カウントして「あと1500字か……」とか思いながら書いているタイプなので、まったくアーティスティックじゃないんです。それに、音が自分の中から出てくるということも、私にはまったく想像できない経験です。文章を書くことと似ているところはまったくないですか?
寺尾 エッセイはわりと鼻歌的に書けて、ちょっと似ているかな。エッセイは音楽的かもしれない。
鈴木 エッセイだと指を走らせていると出てくる、みたいな時はありますよね。ああいう感じなのかな。
寺尾 そうだと思います。
母の嫌いな夜の世界に自ら入った
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