東大闘争から半世紀後の死
1968年6月、東京大学では医学部処分問題に端を発し、急進派学生が本郷キャンパスの安田講堂を占拠・封鎖した。これを大学当局が警察力をもって排除したことから、紛争は全学的に広がる。ほとんどの学部では学生のストライキによって授業が停止され、安田講堂は再び占拠された。以来、東大紛争、あるいは東大闘争とも呼ばれるこの事態は半年以上にわたって続く。年を越して1969年1月18日には、ついに大学当局の要請で機動隊が本郷キャンパスに入り、占拠学生との2日間にわたる攻防戦の末、安田講堂をはじめ各施設の封鎖が解除された。
東大闘争のさなか、1968年11月には教養学部のある駒場キャンパスで学園祭(駒場祭)が開催された。このとき、任侠風の男の後ろ姿(背中には東大のイチョウのマークの刺青が彫られている)を描き、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」という惹句を掲げたポスターが登場した。このポスターの作者こそ、当時、教養学部文科Ⅲ類の2年生で、のちに作家となる橋本治(2019年1月29日没、70歳)である。ポスターは闘争下の学生の心情を象徴するものとして話題を呼び、橋本も一躍時の人となった。
安田講堂の封鎖解除から半世紀が経った1月19日、私はふと橋本のことを思い出した。それもあって、10日後に彼の訃報を知ったときは本当に驚いた。
今回の「一故人」は、いつもとやや趣きを変えて、私自身の思い出も交えながら橋本治という人について書いてみたい。それは、橋本の評論はたいてい、なぜこのテーマで書くことになったのか、とりあげる対象との関係など「自分のこと」を説明した上で書かれていたからだ。
「春って曙よ!」の衝撃
私が初めて橋本治の著書を手に取ったのは中学1年のとき、年号でいえば1989年だと記憶する。その本は『桃尻語訳枕草子』(1987~95年)だった。おそらくいまの40代ぐらいには同書で橋本を知ったという人が多いはずだが、これは清少納言の随筆『枕草子』を現代の若い女性の言葉に訳したものだ。同時期にはNHK教育テレビで、本書をもとにした『まんがで読む枕草子』という番組も放送されている(橋本自身も解説者として出演)。
『枕草子』の有名な書き出し「春は曙」は、通常の現代語訳では「春は曙(がよい)」とこっそり言葉を補うことが多い。それを同書では「春って曙よ!」と言い切ったのがまず衝撃だった。橋本いわく、清少納言は曙がいいとも悪いとも何とも言っていないのだから、《これが一番正しい直訳だと訳者は信じております》(『桃尻語訳枕草子(上)』)。
『桃尻語訳枕草子』で橋本治と出会った私は、それを入口に彼のエッセイや評論を中心に読み漁る。ちょうどこのころ、『桃尻語訳枕草子』の版元の河出書房新社では、橋本が方々で書いてきたエッセイをテーマ別にまとめた『橋本治雑文集成 パンセ』と、著書を文庫化した「橋本治コレクション」が刊行中だった。『パンセ』については、全7巻の内容を再構成し1冊に凝縮した『青春つーのはなに?』という本も集英社文庫から出ている。この本と、「橋本治コレクション」に入った『ぼくたちの近代史』は、数多い橋本の本のなかでも自分にとってとくに大事な2冊だ。いずれも刊行されてすぐに買ったと思う。奥付を見ると、『青春つーのはなに?』は1991年10月、『ぼくたちの近代史』は1992年1月の発行とあった。私が高校受験を目前に控えていたころである。
高校と大学で味わった「孤独感」
『ぼくたちの近代史』は、1987年に橋本が6時間にわたり行なった講演を収録したものだ(ちなみにこの講演を企画したのは、のちに作家となる保坂和志である)。そのなかでとりわけ私の印象に残っているのは、彼が高校時代の体験談として語った一挿話である。
都立の進学校の生徒だった橋本は、同級生たちが高校2年の3学期になった途端、一斉に受験勉強を始めたことに強い違和感を覚えたという。そんな状況に対し、進級してからも「俺やっぱし、高校3年生やりたい」と思った彼は、受験には関係のない授業もきちんと受けた。保健体育で教師からレポートを課された際、提出したのは彼だけということもあったらしい。体育祭では、クラスで仮装行列をやることになったものの、そのための張りぼて制作は誰も手伝ってくれなかった。その準備のあいだ、下校時間が来て一人で教室を出るたびに、彼はやるせなさを覚えたという。
この本を読んだころ、私も高校生活を謳歌するつもりで入学したものの、1年生からしっかりと組まれた受験カリキュラムになじめず、成績はぐんぐん落ち続けた。だからこそ、橋本の体験談には共感を抱き、心の支えとなった。
これ以降も私にとって橋本治は重要な書き手であり続けた。30歳をすぎて、家族の事情などにより東京から郷里に戻ることになった時期には、『ひらがな日本美術史』全7巻(1995~2007年)や、対談集『橋本治と内田樹』(2008年)といった著書を貪るように読んだことを思い出す。それらの内容は当時自分が抱えていた問題と直接関係はないが、無意識のうちに橋本の書くものを求めていたような気もする。何事も徹底して考える彼の姿勢にならおうという気持ちがどこかにあったのかもしれない。
そんな橋本の姿勢はどこから始まったのだろうか。どうやら一浪して大学に入ったのち、1968年の東大闘争のさなかに高校時代とほとんど同じ経験をしたことも影響しているようだ。
東大闘争は、本郷からやや遅れて駒場にも波及した。夏休み前には教養学部もストライキに突入するが、橋本はそれに背を向ける。11月の駒場祭に向けて、歌舞伎研究会の公演の準備に追われるとともに、掛け持ちしていたデザイン研究会では、駒場祭のポスター公募に応じて1点制作した。こうして駒場祭の実行委員会によって選ばれたのが、あの「とめてくれるなおっかさん」のポスターである。
すでにキャンパスはストに入っていたにもかかわらず、駒場祭の準備に没頭していた橋本にはその自覚はなかった。周囲の緊迫した状況に彼が気づくのは、駒場祭が終わってからだった。後年、このときの心境を次のようにつづっている。
《駒場祭が終わってしまえば、もう私にはなにもすることがない。そうなって、「周りで起こっていることを真面目に考えろ」と言われても、いまさらの私にはなんにも分からない。周りの人間の顔つきはあきらかに変わっていて、もう「のんきな顔」をしている人間はいない。「のんきな顔」をしていられるのは、事態のなんたるかを把握していない、政治性のない思想的にもバカなノンポリ学生だけで、私の入るカテゴリーはその「バカなノンポリ学生」だけなのである。それは、話題が「大学受験のこと」に限られてしまった高校3年の教室と同じだった。(中略)1968年の秋の終わりに、「孤独な高校3年の終わり」はもう一回やって来たのである》(毎日ムック『シリーズ20世紀の記憶 1968年』)
橋本治の書くものの根底には、他人に対する違和感や距離感が一貫してあった。それは、高校時代、そして東大闘争の経験から、さらに深まったところもあるのだろう。彼が「自分は自分なりの考え方をしてもいい」と初めて気づいたのもちょうどこのころ、20歳をすぎてからだという。まず考えようと思ったのは「自分のこと」だったが、それはありがちな「自分とは何者か?」といったことではなかった。彼にとって「自分自身」とはあまりにも明確ではっきりしていて、揺るぎようがなかったからだ。しかし自分は明確であるにもかかわらず、《なぜ外部とぶつかると“へんな奴”になってへんな齟齬が生まれてしまうのか?》……この疑問こそ、彼が物を考えるようになったそもそもの発端だった(橋本治『知性の顚覆 日本人がバカになってしまう構造』)。
齟齬を解消するには、自分の考えを他人にもわかるように説明しなくてはならない。彼の書く評論に必ずといっていいほど自分のことが出てくるのは、そのためだろう。たとえば、先にあげた『ひらがな日本美術史』は、日本の美術の歴史を古代から現代までたどったものだが、そこでは必ず、橋本がなぜこの作品を「いい」と思うのか、それをとりあげた理由を含めて説明されていた。あるいは『小林秀雄の恵み』(2007年)では、文芸評論家・小林秀雄の畢竟の大作『本居宣長』を読み解くにあたり、冒頭で《『本居宣長』を書いた小林秀雄を論ずるためには、それと対峙する私(=橋本治)をはっきりさせなければならない》、《なぜかと言えば、『本居宣長』は、読み手のあり方を問題にする本だからであり、「小林秀雄を読む」ということは、結局、自分を語ることなのである》と宣言している。
橋本治は「自分のことにしか興味がない」と言ってはばからなかった。しかし彼の書くものは、いわゆる「自分語り」とは違った。ある対談で《自分のことにしか興味ないということは、自分が生きていくその先も含めてのことだから、自分のいる、その先の外部まで入ってきちゃうんですよね》(筑紫哲也ほか『若者たちの神々Ⅱ』)と語っていたように、自分について書きながらも、それが外部へとつながっていくというのが常であった。
小説の書き方を評論やエッセイの執筆から学ぶ
橋本は、東大闘争が収束したあと、教養学部から文学部国文学科に進む。卒業後は同学部美術史学科に研究生として在籍しながら、イラストレーターの活動を始めた。1977年には小説『桃尻娘』が小説現代新人賞の佳作となり、作家デビューする。『桃尻娘』は女子高生を主人公に、彼女や同級生の一人称という形で各話が書かれていた。以来、評論とは対照的に、彼の小説ではほぼ、自身とはまったく立場も出自も異なる人間が描かれることになる。これについて彼は次のように語っている。
《デビュー作から自分と半分ほどの年齢の女子高校生の話を書いていたので、私にとっては、自分から切り離した他人を書くことが小説を書くことであって、そのはじめに他人を書いてしまったから、世の中は他人だらけなんだなと気づくしかなかった。他人と自分の共通項みたいなものがどこかにあるから他人が書けるわけで、そんなふうに他人を書くのに忙しくしていたら、自分のことはどうでもよくなってしまった》(『朝日ジャーナル別冊 1989-2009 時代の終焉と新たな幕開け 希望の思想はどこにあるのか?』)
自分が出てくるか否かの違いはあるが、彼にとって小説と評論は車の両輪のようなものであった。後年のインタビューでは、《小説を書くために、エッセーや評論を書いて、書き方を学んでいった》と話していた(『AERA』2019年2月11日号)。たとえば、三人称が書けるようになったのは、チャンバラ映画を論じた長編評論『完本チャンバラ時代劇講座』(1986年)を書いてからだという。
他方、やはり長編評論である『'89』(1990年)では、「おじさんにとっての」とか「おばさんにとっての」といった具合に、複数の視点で同時代を論じた。これについて橋本は、《ひとつの時代をひとつの視点で見るのは限界があるけれど、あるひとつの視点から解放されて、自分には興味がないけれど、これを必要としている他人はいたかもしれないと考えれば、見えてくるものなんて、いくらでもあるんです》と説明している(『朝日ジャーナル別冊 1989-2009 時代の終焉と新たな幕開け 希望の思想はどこにあるのか?』)。ここには他人の視点から小説を書いてきた経験も反映されているに違いない。
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