どうせ殴れやしねえだろう」海に挑む時ー6

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 十月、瀬戸内海にも肌寒い風が吹き始めていた。

 熊一と梅は簡単な祝言を済ませ、晴れて夫婦となった。二つ年上の姉さん女房だが、二人は互いに憎からず思っていたらしく幸せそうだった。

 嘉右衛門は、これで肩の荷が一つ下りた気がした。だがその一方、弥八郎の帰るべき場所をなくしてしまったのも事実なのだ。

 熊一は「わいは弥八郎さんが帰ってくるまでの仮の大工頭です」と言い張り、大工頭引き継ぎの儀を辞退したので、作事場の主の座は空席となっていた。それでも弥八郎が帰ってこないという意思を明らかにすれば、熊一に跡を取らせることになる。

 —奴が次に帰ってきた時、それをはっきりさせればよい。

 嘉右衛門はその時、すべてから手を引き、隠居しようと思っていた。

 梅が新居に去ったため、嘉右衛門は一人暮らしになった。

 —みんないなくなっちまった。

 いざ一人になってみると、かつて四人で暮らしていた頃が噓のようだ。

 妻のあさは嘉右衛門よりも半刻は早く起き出し、朝餉の支度をするのが常だった。嘉右衛門が目を覚ますと、いつも台所から菜を切る小気味よい音が聞こえ、味噌汁の匂いが漂ってきた。時には赤子の梅の甲高い泣き声や弥八郎の走り回る音が嘉右衛門を起こしたが、それもまた心地よいものだった。

 —あの頃は楽しかった。

 もはや取り戻せない日々なのは分かっている。だが、あの幸せな日々と今の己の境涯のあまりの差に、嘉右衛門は茫然とするしかなかった。

 家にいると寂しさが募るので、嘉右衛門は朝から晩まで作事場にいるようになった。

 磯平から言い含められているのか、熊一は何をするにしても嘉右衛門にお伺いを立て、それに従おうとした。しかしそうした熊一の態度が、逆に嘉右衛門には辛かった。

 磯平が去る前から、嘉右衛門は後進の指導に力を注いできた。熊一を一刻も早く一人前にしなければならないという思いは、とくに強かった。

 ところが数日前、嘉右衛門が実地に「はぎ合わせ」を教えている時、縫釘を打った箇所にひびが入った。「摺合わせ」が不十分だったのか、縫釘を打つ箇所の見極めが甘かったのかは分からない。だがこれまで、一度としてそんなことはなかった。

「元々、小さなひびが入っていたんですよ」と言って慰める熊一を尻目に、嘉右衛門は言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。

 翌日から、嘉右衛門は作事場にも行かなくなった。

 梅が呼びに来ても布団から出ず、酒を抱えて日がな一日、過ごすことが多くなった。

 もはや誰にも必要とされず、後進の指導もできないなら、何の役にも立たない老人にすぎない。

 嘉右衛門はため息ばかりつく日々を送っていた。それでも妻のあさや市蔵の眠る墓地へは毎日、欠かさず通った。

 一升瓶を抱えて墓に向けて語り掛けるのが、嘉右衛門の唯一の楽しみになっていた。

 この日もいつものように墓で酒を飲み、うつらうつらしていると突然、揺り起こされた。

「おかしら、しっかりして下さい」

「誰でえ」

 目が覚めて顔を上げると、ひよりが懸命に体を揺すっていた。

「お頭、たいへんです!」

「たいへんて—、いったいどうした」

 あたまはふらふらしたが、何とか立ち上がれた。

「棟梁がどこかの商人を作事場に連れてきて、何かの見積もりをしているんです。梅さんがお頭を呼んでこいって—」

 ひよりの懸命な様子にただならぬものを感じた嘉右衛門は、ふらつく足を踏みしめて丘を下った。

 作事場には、いつもとは異なる緊迫した空気が漂っていた。大工たちは作事場の外に出て、腰掛けて煙草を吸ったり、寄り集まって話し込んだりしているが、どの顔も不安そうに見える。

 —何かあったな。

 大工たちが一斉に休むなど、これまで一度としてなかった。しかも作事場には修繕を要する船が三隻も入ってきており、その納期も厳しい。遊んでいる暇などないはずだ。

「おい、どうした」

 嘉右衛門の姿を認めた権蔵が答える。

「突然、棟梁が来られて『みんな出てくれ』と言うんですよ。理由を問うたのですが、『いいから出ろ!』と一喝されたので、皆、仕事を放り出してここに来ました」

 そこに梅が走ってきた。

「おとっつぁん、棟梁が見慣れぬ商人を連れてきて、中の道具やからくり(設備)に値を付けさせているよ」

「本当か」

 —重正の野郎は、わいの作事場を叩き売ろうというのか。

 嘉右衛門が怒りを抑えて問う。

「熊一はどうした」

「棟梁と中にいるよ」

「よし」と言うや嘉右衛門が作事場の中に入ろうとした。だが、作事場の出入口にいた重正の手下たちが行く手をふさぐ。

「ここから先へは行けねえよ」

「なぜだ。ここはわいの—」

 嘉右衛門は厳密に言えば雇われ者であり、作事場の持ち主は丸尾屋になる。

「何が言いたい。まさか、ここがあんたのものだとでも言いたいのかい」

「それは—」

「だいいち、あんたは隠居したんだろう。隠居に用はねえよ」

「まだ正式には隠居していねえ」

「でも、昼間っから酒飲んでるのは隠居だけだぜ」

 手下たちが笑い合う。

 —その通りだ。

 嘉右衛門は自分が酒臭いことに気づいた。

「うるせえ、この野郎!」

 その時、中から怒鳴り声が聞こえてきた。重正のものらしい。同時に熊一が何かを哀願する声も聞こえてくる。

 —熊一!

 思わず中に入ろうとする嘉右衛門の両腕を、手下二人が押さえる。だが嘉右衛門の背後から大工たちが集まってくるのを見た二人は、あっさりと手を放した。

「入っていいのは、あんただけだぞ!」

「分かっている」と答えた嘉右衛門は、背後を振り向き、「何があってもここから入るな」と告げるや、奥へと進んでいった。

 やがて暗がりの中に立つ複数の人影が見えてきた。そこには数人の男たちに囲まれ、土下座する熊一の姿もあった。

「どうか。ご慈悲を」

「ご慈悲も糞もねえ。わいは、ここを売ると決めたんだ」

 熊一と重正のやり取りが聞こえる。

「お待ち下さい」

 嘉右衛門の声に、皆が一斉に振り向く。

「あっ、頭、どうかこの場は任せて下さい!」

 嘉右衛門に気づいた熊一が慌てる。

「お前は引っ込んでろ!」

 土下座する熊一を守るようにして、その前に立った嘉右衛門が言った。

「棟梁、ここで何をやっておられるので」

「見ての通り、大坂の仲買人に見積もりを取ってもらっている」

「何の見積もりで—」

「ここにある道具などの見積もりだ。どれも古くて二束三文だがな」

 重正が鼻で笑ったので、それに追随するように、そこにいる手下たちが沸く。

「ここを売ると仰せか」

「そうだ。手広くやっている丸尾屋の商いの中でも、ここのところ船造りだけ利が出ていない。この際だから切り捨て、丸尾屋は丸亀に移転し、廻船問屋と船子の手配だけをやろうと思っている」

 重正が昂然と胸をそびやかせる。

「そいじゃ、わいら大工たちはどうなるんです」

「知ったこっちゃねえや。それぞれ腕が自慢なら、別の作事場に雇ってもらえばいいじゃねえか」

 嘉右衛門は重正の冷酷さに愕然とした。

「しかし、すでにわいらの船を買っていただいたお得意様もおります。お得意様の船を中作事することは、わいらの義務です」

「ああ、そうだ。お得意様を袖にするわけにはいかねえ。丸尾屋にも長年培ってきた暖簾(信用)があるしな。だから丸尾屋は請け口(契約窓口)となって、仕事を別の作事場に出すつもりだ」

「それでは、利を抜くだけの商いをするというんですか」

「そうだよ。大坂ではみんなやってる。丸尾屋の身代があるから、それが信用となり、お得意様は仕事をくれる。その先で、どこの誰が船造りや修繕をしようと、お得意様は知ったこっちゃねえ」

「それじゃ、わいらはそこに雇ってもらえと—」

「それはお前らが考えろ。商いは厳しい。何かと工夫していかないと、大坂の連中に負ける。そうなりゃ、みんなで野垂れ死にだ」

「あんたという人は—」

 嘉右衛門が一歩踏み出したので、重正は少したじろいだ。

「何だ、やるってのか。いつでも相手になってやるぜ」

 握り締めた重正の拳が震えている。虚勢を張っているのだ。

「殴れるもんなら殴ってみろよ」

「お頭、駄目です。堪えて下さい!」

 背後から熊一が両足を抱きかかえる。それを振り払った嘉右衛門は拳を固めた。

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男たちの船出

伊東潤
光文社
2018-10-17

コルク

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