夜明けから日の入りまでこき使われ、へとへとになった弥八郎は、湯屋に行って湯舟につかり、これから先のことに思いを馳せた。
——このままでは、本当に十年かかるな。
淡路屋では、河村屋七兵衛の紹介で来たというだけで白い目で見られ、先輩大工たちは弥八郎に厳しく当たる。それを伊三郎も見て見ぬふりをしている。
しかも、やらされるのは材木の運搬や掃除といった見習い仕事ばかりで、いつになっても鉋一つ掛けさせてもらえない。
そんな日々が数カ月続き、ようやく弥八郎も、伊三郎たちが自分を追い出そうとしていることに気づいた。むろん七兵衛の手前、伊三郎からは「出ていけ」とは言えないので、弥八郎の方から出ていかせようというのだ。
——姑息なやり方だ。
そうは思いつつも、弥八郎には耐えるしかない。
皆で示し合わせているのか、弥八郎に話し掛ける者はいない。そのため弥八郎は休憩時間も一人で過ごし、一日の仕事が終わった後も一人だった。
——だが、ここで音を上げるわけにはいかない。
出ていこうにも、弥八郎には行き場がないのだ。
「あの、もし——」
湯屋からの帰り道、突然、暗がりから現れた女に声を掛けられた。頭には手拭いを掛け、小脇に筵らしきものを抱えている。
「旦那はん、遊んでいきませんか」
——なんだ、立君か。
立君とは、白人と総称される私娼たちの最下層に位置し、筵を抱えて客を引き、晴れていればどこかの藪の中で、雨であれば寺社の軒下などを借りて春をひさぐ女たちのことだ。
だが常の立君であれば、無理やり腕を取って暗がりに引きずり込もうとするのに、その女は慣れていないのか、ただそこに立ち尽くしていた。
「金なんてねえよ」
そう言い残すと、弥八郎は歩き出した。
「あの、いくらだったら出せるんどすか」
「いくらも出せねえよ」
追い払うために凄味を利かして言ったところ、立君は「すんまへん」と言って下がっていった。その呆気なさに拍子抜けしたが、立君とて金のない者に、いつまでもかかずらっているわけにはいかないのだろう。
——ここで食べていくのは、並大抵ではないからな。
弥八郎は、塩飽での食うに困らない生活が特別だったことを思い知った。
その時、背後の暗がりから、だみ声が聞こえた。
「まだ客の一人も取れへんのか」
続いて何かをはたく音がすると、女の嗚咽が聞こえてくる。
——かかわり合いにならない方がいい。
弥八郎の冷静な部分がそう囁く。だが、さらに罵倒が聞こえてきた。
「この役立たずめ。客も引けへん立君なんて野良犬以下や」
——野良犬だと。
弥八郎は、自分のことを言われたかのような気がした。
——お前は見て見ぬふりをするのか。それでは、お前はおとっつぁんと同じじゃないか。
心の中の別の一部が弥八郎を叱咤する。
——おとっつぁんと同じだと。わいは違う!
ゆっくりと振り向くと、大男が女を板塀に押し付けて、腕を振り上げていた。
「おい、待ちなよ」
「何や、あんさんは」
振り向いた男の顔に驚きの色が浮かぶ。
「通りがかりのもんさ」
「じゃ、向こうへ行ってや」と言いつつ、男が再び腕を振り上げる。
「兄さん、やめときなよ」
「何やて」
男が弥八郎の方に向き直った。
「わいのやることに文句でもあるんか」
「あると言ったらどうする」
「よう言うた!」
次の瞬間、男が弥八郎の胸倉を摑もうとしたが、その手を払った弥八郎は、体を入れ替え、足を掛けて男を突き飛ばした。
「うわっ!」
勢い余って積まれた天水桶に突っ込んだ男が、無様に転がる。
「こ、この野郎!」
立ち上がった男は、ずぶ濡れになっていた。
「まだ、やるってのかい。こちとら腕には多少の心得がある。やる気なら相手をしてやるぜ」
弥八郎の言葉に男は怖気づいたのか、「覚えてやがれ」と言い残して駆け去った。
——これで済んでよかった。
子供の頃から喧嘩っ早い弥八郎は、その度に嘉右衛門からひどく叱られた。
「大工ってのは腕が命だ。腕を怪我したら飯が食えなくなる。それだけは忘れるな」
その言葉を思い出すと、冷や汗が出る。
「あの——」
女はまだそこにいた。
「なんでえ」
「あの人は、すぐに仲間を呼んできます」
まだ危険は去っていなかった。
——これで怪我でもしたら、いよいよ淡路屋にはいられなくなる。
伊三郎は、これ幸いと弥八郎を追い出すだろう。
「ああいう連中は、一人では弱いので互いに助け合っています」
「じゃ、消えるしかねえな」
そう言って走り去ろうとする弥八郎の袖を、女が取った。
「待って下さい。このままでは、あてもただでは済みません。どうか連れてって下さい」
「よしてくれよ」と言いつつ女の腕を払おうとしたが、間近に見た女の瞳は真剣だった。
「どうか——、お願いします」
「分かったよ。でも逃げ切ったら、後は知らねえよ」
そう言うと弥八郎は、女の手を取って駆け出した。
——天満まで来れば、ひとまず安心だ。
歩を緩めた弥八郎は、女の手を放して河岸に下りた。そこは雁木(階段)になっており、左右にはびっしりと浜納屋が並んでいる。むろんこの時間、どの浜納屋も戸が閉まっており、周囲に人気はない。
水打ち際まで行って水を飲もうとすると、女が「ここの水はよくないどす」と言う。
そう言われると飲む気も失せる。
弥八郎は水を飲むのをやめると、雁木に腰を下ろした。どこかで犬の遠吠えが聞こえる。昼の喧騒が噓のように、大坂は寝静まっていた。
「よろしいですか」と言いつつ、女が横に腰を下ろす。
「顔を見られたかな」
弥八郎は仕返しが心配だった。
「あそこは暗がりやったさかい、顔は見られてないと思います」
意外に女は冷静だった。
「わいは弥八郎というんだが、あんたの名は」
「ひより、いいます」
「ひ、よ、りというのかい」
女がこくりとうなずく。
「うちは農家やったさかい、晴れの日が多くなるのを祈って付けたと、かあちゃんから聞いたことがあります」
弥八郎は、農家がそうした願いを込めて子に名を付けるのだと初めて知った。
「珍しい名前どすか」
「ああ、聞いたことがない」
と言っても、弥八郎は塩飽のことしか知らない。
弥八郎は、自分のことをかいつまんで語った。
「それで、お前さんはどこの産だい」
「京都の北の福知山いうとこどす」
「ああ、だから『どす』と言っているんだな」
「そうどす。でも洛中の人たちからは、同じ山城国とは思ってもらえまへん」
ひよりが口辺をほころばせる。
「そうか。あんたは、京都でもここでも他所者か。わいらは似た者同士だな」
「そうかもしれません」
二人の会話は続いた。
それによるとひよりは、福知山近郊の農家の出で、あまりの貧しさから女衒に売られ、大坂で働かされているという。年は十六なので、二十一になる弥八郎とは五つ違う。
——器量は十人並みで体型も華奢だし、これでは、なかなか客も付かないだろうな。
そう思ってひよりの顔を見ていると、ひよりは恥ずかしげに俯きながら歌い始めた。
福知山出て長田野越えて駒を早めて亀山へ
ドッコイセ、ドッコイセ
福知山さん葵の御紋いかな大名も敵やせぬ
ドッコイセ、ドッコイセ
今度お江戸の若殿様に知行が増すげな五万石
ドッコイセ、ドッコイセ
そのかすれた声が耳に心地よい。
黙って聞き入っていると、次第にしゃくりあげるようになった。
「辛かったんだな」
「はい」
弥八郎がひよりの肩を抱き寄せる。
「帰りたいのか」
「うん。でも帰れない」
「どしてだ」
「あては邪魔者だから」
その言葉が弥八郎の胸を抉る。
——わいは誰にも邪魔者扱いされなかった。だが故郷を捨てた。ここにいる女は親に邪魔者扱いされ、故郷を出ていかねばならなかった。
弥八郎は自分の甘さを痛感した。
「これからどうする」
「分かりまへん」
「行くところはないのか」
「ありまへん」
ひよりが首を左右に振る。
——このままじゃ、同じことの繰り返しだ。
食べていけなくなれば物乞いになるしかない。だが若い女なら春をひさぐことはできる。結局は、そこに落ちていくしかないのだ。
——このままなら生涯、ひよりは苦界から抜け出せない。
それを思うと、暗澹たる気分になってくる。
「どうして、この世は思い通りいかないんだ」
胸内から感情が溢れ出てきた。
「あんたも辛いんやね」
「ああ、何をやってもうまくいかねえ。わいには人並み以上の才も腕もあるんだ。だが、どうしても運が向いてこねえんだ」
「運なんてものは、あてらには初めからないんだよ」
——確かにそうかもしれない。この女もわいも、ここでは、これからずっと底辺を這いずって生きていかなければならないんだ。
弥八郎は、世間全体を敵に回しているような気がしてきた。
——だが、この女だけでも救えないか。この女を救うことで、わいの運も開けてくるんじゃないだろうか。
なぜか弥八郎には、そんな気がした。
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