七カ月余の工程を経た延宝元年(一六七三)十一月、いよいよ糸荷船が船卸される日を迎えた。
ここまでの作業は思ったよりも順調に進み、嘉右衛門は胸を撫で下ろしていた。
船上にいる磯平の合図によって、湾内に停泊する先駆け船の轆轤が回される。同時に威勢のいい掛け声が聞こえ、大工たちによって糸荷船に結ばれた太縄が引かれていく。
いつも造っている五百石積みの船よりも一回り大きい糸荷船が動き出すと、見物している人々から歓声がわく。
糸荷船は舳からゆっくりと海に入っていった。だが湾内は浅瀬なので、すぐに沖に出さないと船底が砂にはまってしまう。
——浅瀬に腰を下ろさせるな。
口にこそ出さないが、嘉右衛門の心中は穏やかではない。
だが、そんなことは百も承知とばかりに、牽引用の先駆け船につながれた太縄がぴんと張る。
三艘の先駆け船によって、糸荷船が外海へと曳航されていく。
——どうやら無事のようだな。
嘉右衛門は胸を撫で下ろした。
「おい、嘉右衛門」
「あっ、棟梁」
嘉右衛門が五左衛門に頭を下げる。
「どうやら、うまくいったようだな」
「へい。おかげさんで」
「これで注文主も喜ぶ」
この糸荷船は、丸尾屋が廻船業で使う船ではなく注文主に納品する船だ。
「此度はどこの注文で」
「何だ、知らなかったのかい」
「へ、へい」
「磯平には伝えてあったんだがな。石州浜田の清水屋さんだ」
清水屋といえば、五百石積み以上の持ち船十二隻を数える有数の廻船問屋である。清水屋は大のお得意だが、いつも細部にこだわり納期にうるさいので、注文を片付けるのは一苦労だった。
「それなら大急ぎですね」
「ああ、そうだ。大急ぎで納めろとよ。うちらと違って何隻もの大船が北海(日本海)を走り回っている清水屋さんだ。いち早く長崎に糸荷船を回し、次の南蛮船の寄港に備えたいんだろう」
三艘の先駆け船と糸荷船を結んでいた縄が外される。糸荷船の上では帆を張る作業が始まった。
——それにしても、注文主を聞かなかったわいも迂闊だったな。
これまでそんなことはなかった。注文主の名は船造りにとって関係がないとはいえ、お得意になると仕上げや艤装などに好みがあるので、そこに気を配るのも大事な仕事だ。
——そうか。これまでは市蔵が教えてくれてたんだな。
嘉右衛門は、五左衛門から注文主の名を聞いたことがないことを思い出した。というのも、いつの間にか市蔵が注文主の名を知っていて、様々な会話の中で嘉右衛門に伝えていたからだ。
「磯平は、市蔵と弥八郎の穴をしっかり埋めているぜ」
唐突に五左衛門が言う。その真意を測りかねた嘉右衛門は口をつぐんだ。
「此度も、最後の『摺合わせ』で一苦労だったらしいが、磯平が何とか間に合わせたっていうじゃねえか」
「えっ、それはどういうことで——」
嘉右衛門は愕然とした。「摺合わせ」は嘉右衛門が担当し、うまくいったと思っていたからだ。
——どういうことだ。
そんなことを知らない五左衛門は、帆を張り終えた糸荷船を見つめつつ、独り言のように言う。
「見ての通り、これからは大船の時代だ。注文主も大船を求めてくる。急に千石積みは無理でも、わいらも徐々に大きい船を造っていかなきゃならねえ」
「へ、へい」
「弥八郎は、そのために大坂に行かせたと思えばいい」
五左衛門が思い出したように問う。
「そういえば、弥八郎が想い女を送ってきたってな」
「あっ、はい」
嘉右衛門は上の空になっていた。
「おい、聞いてんのか」
「聞いています。立君をやっていた女だというんですが、弥八郎とは男女の仲ではないようで」
「そんなわけないだろう」
五左衛門が高笑いする。
「そうかもしれませんが、梅が詳しく聞いたところ——」
梅がひよりから聞いた顚末を、嘉右衛門が語ろうとしたが、五左衛門は細かい事情には関心がないようだ。
「まあ、親としては心配だろうが、弥八郎も若いんだ。しかも、これで帰ってくる気があることが分かった。よかったじゃねえか」
「ええ、まあ」
「おっ、走り出したぜ」
先駆け船と結ばれていた太縄が外された糸荷船は、順風に乗って走り出した。
——どうやら心配はなさそうだ。
嘉右衛門は内心、安堵のため息を漏らした。
「それじゃ、明日までに艤装を施しといてくれ。明後日には浜田に廻漕する」
それだけ言うと、五左衛門は去っていった。
——「摺合わせで一苦労」とは、どういうことだ。
五左衛門に確かめようと思ったが、後で磯平を問い詰めればいいことだと思い直した。
沖を気分よさそうに疾走する糸荷船を眺めつつ、嘉右衛門は足早に作事場に向かった。
「おい、磯平」
「へっ、何で」
「ちょっと来てくれ」
次の船の仕事をしていた磯平が手を止めると、嘉右衛門の後に続いた。
作事場から少し離れた浜まで来ると、嘉右衛門は煙管に煙草を詰め込んで一服した。
煙草をやらない磯平は、黙ってそれを見ている。
「何の話か聞きたかねえのか」
「いえ、頭が一服してからと思いまして」
「お前は気が利きすぎるんだ」
苦笑した後、嘉右衛門が糸荷船の「摺合わせ」のことを問うた。
「ああ、そのことで」
磯平は苦い顔をしている。
「確か、わいが最後の仕上げをして出来上がりとしたはずじゃなかったか」
「は、はい」
「その後に手を入れたのか」
磯平が黙ってうなずく。
「わいが出来上がりとしたもんに、どうして手を入れた」
「頭が帰った後のことでした。わいも片付けに入っていたところ、熊一がやってきて——」
「熊一だと」
「はい。どうしても気になる箇所があると言うんで、わいも一緒に検分したんですが——」
「それがどうしたっていうんだ」
「実は——」
磯平が言うには、「摺合わせ」がうまくいっていない箇所があり、あのままでは、すぐにも漏水が始まるというのだ。
「そんなことはねえ」
「申し訳ありません」
「何でお前が謝る!」
「摺合わせ」は、その時は「これでよし」と思っても、全体を最後に確認しないと、新たなずれが生じていることがある。
——しまった。最後にもう一度、検分するのを忘れていた。
これまで、それは市蔵がやっていた。黙っていても市蔵がやってくれるので、嘉右衛門は任せきりにしていたのだ。
磯平がおずおずと言う。
「熊一は船卸の寸前まで何度も検分することを、市蔵さんから叩き込まれたと言っていました」
市蔵は幼い頃から熊一を一人前にすべく、様々なことを教えていた。それに引き換え自分は「そのうち教えるさ」と思いつつ、弥八郎にろくに教えていなかった。
——だが今更、それを言っていても仕方がねえ。
「どうして、そのことをわいに告げなかったんだ。先ほど棟梁から聞いて、わいはそれを知ったんだ。とんだ恥をかかせてくれたな」
嘉右衛門は、やり場のない怒りを持て余していた。
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