昨年の秋、彼が夏休みの宿題として提出していた俳句が、新聞社が主催する全国的なコンクールの中学生の部で最優秀賞に選ばれ、表彰されたからである。
悠人はそのことでさえしばらく黙っていたので、里枝は受賞記念の大きな楯が部屋の片隅に転がっているのを見つけて、随分と経った頃に初めて知ったのだった。
その句は、こういうものだった。
蛻にいかに響くか蝉の声
里枝は、この句の出来映えを自分では評価することが出来なかった。しかし、悠人がこれを作ったというのは、いかにも信じ難かった。あとから億劫そうに見せてくれた「選評」には、「衒気が鼻につく」と難点も指摘されていたが、一方で「早熟の才能」という思いがけない言葉があり、「受賞のことば」には、悠人自身のこんな説明が付されていた。
「古墳群公園の桜の木に、蟬の蛻がひとつ、とまっていました。
木の上では、蝉がたくさん鳴いていました。
僕は、この蛻から飛んでいった蝉の声は、どれだろうかと耳を澄ましました。そして、残された蛻は、七年間も土の中で一緒だった自分の中身の声を、どんなふうに聞いているんだろうと想像しました。
蛻の背中のひび割れは、じっと見ていると、ヴァイオリンのサウンドホールみたいな感じがしました。そして、蛻全体が、楽器みたいに鳴り響いているように見えたので、僕は、この句を思いつきました。」
悠人は、弟の死のことにも、父親の死のことにも一切触れていなかった。けれども、里枝は、この「桜の木」というのは、夫が「自分の木」に決めていた、あの木のことなのだろうと思った。そして、本当に去年の夏に、彼が一人で古墳群公園を訪れ、こんな経験をしたのか、それとも、すべては空想なのかはわからなかったが、いずれにせよ、あの木の下で、蝉の鳴き声を聞きながら、独りその蛻を見つめていた息子の姿を想像して、涙が止まらなかった。「早熟の才能」かどうかはわからなかったが、ともかく、彼女は、文学が息子にとって、救いになっているのだということを、初めて理解した。それは、彼女が決して思いつくことも、助言してやることも出来なかった、彼が自分で見つけ出した人生の困難の克服の方法だった。
城戸の報告を受け取った里枝は、この一年余りもの間、失われていた夫の名前が、最終的に「原誠」だとわかって、ようやく彼と出会い直したような感じがした。とは言え、あの日、初めて店を訪れて以来、死に至るまで一緒に過ごした思い出の中の彼に、そのまま「原誠」という固有名詞を与えれば、それで済む、というものではなかった。
「大祐君」という生前の呼び名は、間違って使っていた他人の持ち物のようで、もうあまり触れたくなかったが、すぐに「誠君」と心の中で呼ぶことも出来なかった。第一、そう呼びかけることが正しいのかどうか、彼からの返事を受け取ることの出来ない彼女には、わからなかった。
城戸の報告書によると、今まで自分よりも一歳年上だと信じていた彼は、実は二歳年下らしかった。里枝はそれを知って、自分がどうしても「君」をつけて呼びたくなった理由が、今更のように納得された。
そして、城戸が帰った後、長らく見ることが出来なかった彼の写真を、久しぶりにパソコンで眺めながら、やはり彼は、いつかは本名で呼んでもらいたかったのではと感じた。「谷口大祐」としてではなく、原誠として、自分の全体が愛されることを願っていたのではないだろうか。
小林謙吉という人物を、里枝は知らなかった。有名な事件らしいので、当時はニュースを目にしていたであろうが、記憶がなかった。その内容は、目を覆うばかりの悲惨さで、悠人に見せる城戸の報告書も、そこだけは伏せるべきではないかと随分と迷った。
殺人という、金輪際、無縁の世界が、知らぬ間に自分の家族の問題となっていたことが、里枝を動揺させた。谷口恭一は確かに、亡夫の凶悪犯罪の可能性を示唆していた。実際に、殺人犯の子供だったとわかって、彼は、そら見たことかと思っているだろうか? けれども、夫本人はやはり、何の罪も犯してはいなかったのだった。
里枝は、城戸の報告書に書かれている「原誠」という人物の境遇を、つくづく、かわいそうだと感じた。そして、「谷口大祐」の不幸を通じて、自分に伝えようとしていたのは、このことだったのだろうかとやはり考えた。どうしてそんな方法だったのかは、里枝にはわからなかった。理由はどうであれ、心に深い傷があることだけは知ってほしかったのか。原因を偽ったとしても、怪我は怪我であり、痛みは痛みだった。治療方法は、その分、混乱するはずだったが。──
「原誠」が、遺伝の不安に苛まれていたというボクシング時代の関係者の証言は、花のことを考えると、里枝に新たな悩みを抱かせずにはいなかった。
花にも殺人者の血が流れている、などと、唐突に気味悪がるわけではなかった。そんな風には、意外なほどまったく思わなかったが、ただ、いつかその事実を知れば、本人は悩むのかもしれない。その点は、「原誠」と血が繋がっていない悠人とは違っていた。悠人も彼の血の繋がった子供だったなら、今日、あの報告書を見せることに、更なる躊躇いがあっただろう。
そして里枝は、自分がもし、最初からその事実を知っていたなら、果たして彼を愛していただろうかと、やはり自問せざるを得なかった。
一体、愛に過去は必要なのだろうか?
けれども、きれいごと抜きに考えるなら、自分と悠人の生活を支えるだけでも精一杯だったあの時に、それほどの苦悩を抱えた彼の人生までをも引き受けることは、出来なかったかもしれないという気がした。
──わからなかった。ただ、事実は、彼の嘘のお陰で、自分たちは愛し合い、花という子供を授かったのだということだった。
城戸からの報告で、彼女の心を最も激しく揺さぶったのは、一通り話し終えたあとの次のような一言だった。
「亡くなられた原誠さんは、里枝さんと一緒に過ごした三年九ヶ月の間に、初めて幸福を知ったのだと思います。彼はその間、本当に幸せだったでしょう。短い時間でしたが、それが、彼の人生のすべてだったと思います。」
城戸の報告書は、大変な労作で、どうして彼が、自分のためにこんなことまでしてくれるのか、里枝は今更ながら訝った。おまけに、メールや電話でも済みそうなものを、わざわざ会いに来てくれた。
しかし、この励ましに満ちた、力強い言葉を聴いた時、里枝は彼が、ただこのことを直接伝えたくて、来てくれたのだろうということを悟った。なぜそうなのかは、結局のところ、わからなかったが、それはもう詮索しないことにした。
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