伊東は、色黒の強面だったが、話し好きの、さっぱりとした好人物だった。小さな音でFMラジオをかけながら、城戸の関心を探るように、最初は林業一般の話をした。
伊東林産は、基本的には国有林の伐採の権利を買っているらしく、五ヘクタールくらいの場所を大体三ヶ月で伐採し終える計算で、二年先くらいまでは仕事が入っているという。補助金で成り立っている事業で、外材との競争も厳しいが、バイオマス発電所が出来て、どんな木でも売れるようになり、景気は悪くないとのことだった。
「弁護士の先生なら、ちょっと興味を持たれるかもしれませんけど、最近は質の悪い新規参入業者もいて、そういうのの中には、盗伐したりとか、メチャクチャやってるとこもあるんですよ。」
「そうですか。」
「山は、今は遺産相続でも嫌がられるから、ネズミ算的に権利者が増えて、もう、誰の所有かわからなくなってるようなのが、あちこちにあるんです。悪徳業者は、そういう山のすぐ隣の小さい現場を買うんですよ。で、その所有者不明の山の木まで全部伐って持ってっちゃうんです。」
「ヒドいですねぇ。」
伊東が面白いでしょう? と言わんばかりに語るので、城戸も思わず笑って言った。
「業界の問題でもありますからね。どうかしないと。私たちも、古い山の持ち主を確認するために、戸籍を見ることがあるんですが、権利者が枝分かれして、もうグチャグチャなんですよ。」
「そうでしょうね。」
城戸は、「戸籍を見る」というのは、「登記簿を見る」の間違いだろうと思ったが、敢えて口にはしなかった。それよりも、原誠は生前、伊東とこんな話もしたのだろうかということの方が気になった。
周囲の住宅は少しずつ疎らになっていって、やがて木立に囲まれた未舗装の山道に入った。
「ちょっと揺れますよ。……さっき通ってきた辺りの民家、ああいうのは大体、昔ながらの林家ですよ。」
「そうですか。」
山だから、ということでもないだろうが、雨が強くなって、ワイパーの動きが忙しくなった。前方は木立に覆われているが、頭上は開いているので、光はよく差した。背の低い雑木の繁茂が、時折フロントガラスをくすぐり、車体が揺れる度に、泥水の翼が、タイヤの下で驚いたように羽ばたいた。尻に伝わってくる振動には、冒険的なものがあった。
杉は、まっすぐ垂直に伸びるので、濡れそぼった窓からは、霞の中に浮かび上がっているその足許だけが見える。急峻な道を走っているので、今日は霞んで見えないが、その木々の先には、ただ空だけがあるはずだった。
道は大きくうねっていて、時々視界が開けると、遥か遠くの下方に、先ほど通ったらしい道が見えた。意外と高いところまで、登って来ていた。
「雨でも作業はするんですか?」
「まあ、これくらいなら。あんまり大雨だと事故もありますし、やりませんけどね。早目に切り上げたり。」
城戸はふと、原誠が里枝の文房具店を二度目に訪れた日が、豪雨だったという話を思い出した。恐らくは、仕事が休みになったか、途中で引き上げた日だったのだろう。
「あー、こういう現場は、ちょっといただけませんなあ。汚いでしょう、伐採のあとが。うちだったら、こんなことしませんよ。立つ鳥跡を濁さずで、きれいにしていきますから。──もうすぐですからね。」
「暗くなると、この辺の道は恐いでしょうね。道も細いし、さっきみたいな対向車が来ると。」
「でも、ここはまだ、良い方ですよ。もっと急峻な現場もありますから。私はあんまり難しい現場は買わないんですよ。事故が恐いですし、効率も悪くて、結局、儲けも少ないですから。」
「なるほど。」
それからしばらく、黙っていたあとで、伊東はぽつりと呟いた。
「谷口君は、かわいそうなことをしました。今でも毎朝、仏壇に手を合わせてますよ。私は、親父からこの仕事を継いでから、今まで一遍も大きな事故を起こしたことがなかったものですから。本当に辛いです。……あの時に限って、丁度、どうしても断れない人から頼まれた条件の悪い現場でしてね。」
「そうだったんですか。……労災は多いですね、林業は。」
「ええ、飛び抜けて多いです。百人に一人ですから。伐採だけじゃなくて、機械が崖から落ちたりとか。あと、蛇とかスズメ蜂とか。」
「ああ、そういうのもあるんですね、……確かに。」
「祖父の代には、朝鮮人の労働者も働きに来たりしてたんですよ。」
城戸は、思いがけない話に、ほう、という顔をした。しかし、伊東はそれに気づかず、特に続きを話すわけではなかった。
「──谷口さんの事故は、どういう状況だったんですか?」
「私は現場にいなかったんです。……難しいんですよ、木の倒れる方向ばっかりは、どれほどベテランになっても読めないところがあって。特に曲がった木とかがあると、それに引っかかったりして。とにかく事故だけは気をつけろって、毎朝、口を酸っぱくして注意してるんですがね。……」
城戸は、小さく頷いて、しばらく伊東の気分が落ち着くのを待った。悄然とした声で、敢えて見なかったが、涙ぐんでいる気配を感じた。
「原誠」という本名でのつきあいだったボクシング・ジムの会長もそうだったが、その死が、交友を持った人たちに、深く悲しまれていることを城戸はつくづく感じた。誰一人として、彼を悪く言う者はなかった。そして、彼らのそれぞれの心に残り続けている傷の存在も知った。
ほどなく、前方に車が駐まっているのが見え、ブルーシートや山積みになった木材などが見えてきた。伊東は、「ここです。」と言いながら、対向車が辛うじて通れそうな場所に絶妙に車を駐めた。
傘を差して降りると、伊東は、
「あんまり先に行くと危ないんで、気をつけてください。この辺からで、大丈夫ですかね?」
と城戸に現場の入口付近を案内した。
伐採して、トラックが出入りできるように開かれたスペースの先で、オレンジ色の首の長いクレーンのような機械が、材木を一本一本咥えて持ち上げては、その枝を落としている。三人ほどの人影が見えた。更に奥を見渡すと、伐採された平地が続いていたが、その向こうには何もなかった。急な斜面になっているらしい。
「大体、樹齢はどれくらいなんですか?」
「まあ、五十年くらいで伐ってしまいますね。それから、建材になって家屋になってからまた五十年。だから、私は一本の木を百年くらいで考えてますよ。山で五十年、人間と一緒にあと五十年。従業員にもそう言ってます。」
「なるほど。……そっか。……」
「あ、こっちです。気をつけてください、そこ。──今日は、こんな天気なんで、伐採はせずに、ああいう作業ばっかりです。林業も、今は全部機械化されて、暑さ寒さはありますけど、体力的には大分楽になりました。伐採はやっぱり大変ですけどね。」
「谷口さんも機械の操縦を?」
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