海が吠えていた。
盛り上がった波濤が、渾身の力を込めて石積みの波除け(防波堤)にぶち当たる。その飛沫は天まで届くかと思うほど吹き上がり、横風に吹き飛ばされて崩れていく。だが次の瞬間、別の黒山が盛り上がり、再び波除けに挑んでいく。
どんよりとした空には、水分をたっぷり含んだ黒雲が低く垂れ込め、横殴りの雨を降らせていた。
——やはり覆ったのか。
嘉右衛門の心にわき出した黒雲も、次第に大きくなっていった。
——いったい何があったんだ。市蔵、教えてくれ。
吹きつける雨が顔に痛い。それをものともせず、突然の暴風雨に巻き込まれた船団の安否を気遣う人々が、牛島の里浦には溢れていた。
「竜神が怒っとる」
「なんまいだ、なんまいだ」
波濤が砕ける轟音の合間を縫うようにして、神仏に祈る声が聞こえる。横を見ると皆、真剣な面持ちで手を合わせている。
——朝が来たのか。
皆の顔が見えてきたということは、黒く厚い雲の向こうに朝日が昇ったということだ。
「神仏への祈りが足らんかったんかのう」
「そんなこと言うもんじゃねえ」
そうした会話も、凄まじい波濤の音にかき消され、途切れ途切れにしか聞こえない。
常は穏やかな瀬戸内海が、これほど荒れるのは珍しい。神の怒りを持ち出したくなるのも分かる。
だが嘉右衛門は、念仏や称名を唱える気にはならなかった。
今は亡き父の儀助の言葉が胸によみがえる。
「神仏には病魔退散を願うだけにしろ。船造り(船大工)は神仏に頼ったら駄目だ。頼ったら最後、詰めが甘くなり、いい船は造れなくなる」
仕事を始める前、神棚で柏手を打つ父の姿が思い出される。その横顔には、職人の厳しさが溢れていた。
——あれが大工の顔だ。
幼い嘉右衛門にとって、神仏に頼らず己の腕だけを頼りにしていた父は誇らしい存在だった。
だが嘉右衛門も人である。これほどの暴風雨を前にすると、神仏に頼るなという父の教えや己の腕に対する自信が揺らいでくる。
——わいらは神仏に挑んでいるのか。海に船を出すことは、神仏へ挑むことなのか。
自問自答しても、その答えはない。
「わいらの造った船は覆らねえ!」
その時、背後で若々しい声が聞こえた。
「これほど荒れてるんだ。分かんねえぞ」
誰かが横槍を入れる。
「わいらの造った船は、こんくらいの荒吹きは屁でもねえ」
嘉右衛門は一つため息をついた後、腹底に力を入れて言った。
「弥八郎、ごうたく並べる暇があったら仕事に戻れ!」
弥八郎とは、今年で二十歳になる嘉右衛門の一人息子のことだ。
不貞腐れながら弥八郎が去っていく。
——半人前は分をわきまえていなけりゃならねえ。
それが大工の暗黙の掟であり、船大工と船手衆ばかりが住む牛島の掟でもあった。
波濤が砕ける轟音の中、周囲に重苦しい沈黙が広がる。
「嘉右衛門」
その時、呼び掛けられて振り向くと、丸尾屋五左衛門重次が立っていた。
その皺の多い顔は漁師のように潮焼けしており、垂れ下がった瞼の奥にある細い瞳は、厳しさと慈悲深さをたたえている。
五左衛門は塩飽一の「船持ち」として、十五隻もの大船(五百石積み以上)を有する大商人だ。塩飽では並ぶ者なき大分限(大金持ち)として、畏敬の念を込めて「船大尽」と呼ばれている。
これに続くのが、同じ牛島を本拠とする長喜屋権兵衛の七隻、長喜屋伝助の五隻だが、長喜屋の本家と分家を合わせても十二隻にしかならず、丸尾屋には及ばない。
「いつから、ここに立っている」
「少し前からです」
「もう若くはねえんだ。体を大切にせにゃならねえぞ」
五左衛門は、四十五歳の嘉右衛門より三つ年上の四十八歳になる。
「棟梁、わざわざご足労いただき——」
嘉右衛門が腰をかがめる。
「挨拶はいい。それより見込みはどうだ」
「分かりません」
「市蔵が乗っていたと聞くが」
市蔵とは嘉右衛門のたった一人の弟のことだ。
「へい。七百石積みの清風丸に小作事を入れたばかりで、何かあってはまずいと思い、市蔵を乗せました」
小作事とは、三年から五年に一度、船を陸に上げて行う修繕のことだ。この時、船の結合部が緩むことによって起こる浸水を防ぐべく、膠などが塗り直される。
また新造から十二年から十五年目には、腐った船材を取り換え、すべての接合部分に縫釘を打ち直す中作事が行われる。これには三月ほどの期間が掛かる上、新造船の半分ほどの費用を要する。それでも、これらの保守を怠らずに行うことにより、船は二十年から二十五年の寿命が得られる。
清風丸は船卸(進水)してから二年足らずで最初の小作事を行い、万全を期していた。
「市蔵の妻子はどうしている」
「大工の女房衆が家に詰めて励ましとります」
「そうか」と言った後、五左衛門が問うてきた。
「お前の造った船でも破れるか」
しばしの沈黙の後、嘉右衛門が答えた。
「人の造った船で、破れねえもんはありません」
五左衛門の顔つきが険しくなる。
そこにいる者たちは、黙って荒れ狂う海を見つめていた。
寛文十二年(一六七二)六月、塩飽諸島の牛島を出帆した四隻の弁財船は瀬戸内海を東に向かい、大坂で木綿・油・綿・酢・醬油などを積み込むと、今度は西に向かった。赤間関(下関)を回って日本海に入り、石見の温泉津、能登の福浦、佐渡の小木などで積み荷をさばきつつ、庄内藩領の酒田に向かうのだ。帰路は庄内の余剰米や酒、また津軽ヒバなどの造船に使う木材を満載し、塩飽に戻るという予定だ。これは大回しと呼ばれる長距離輸送で、半年がかりの航海になる。
一方、瀬戸内海だけを行き来する小回しと呼ばれる近距離輸送は、一月程度の航海になる。小回しは主に二百石積み以下の船が従事し、大回しはそれ以上の大船が使われていた。
今回、船団を組んでいた四隻はどれも大型の弁財船だが、三隻は五百石積みで一隻だけ七百石積みだった。それが清風丸である。
弁財船とは物資の輸送に使われる大型の木造帆船のことで、後に有名になる北前船、菱垣廻船、樽廻船は、それぞれ航路、形態、積み荷からそう呼ばれていただけで、すべて弁財船になる。
ちなみに石積みとは、米をどれだけ積めるかによる呼び方で、千石船なら米を千石積むことができる。千石の米は一俵を四斗で計算すれば二千五百俵になる。
今回の航路は、清風丸が小作事を終わらせたばかりということを除けば、普段と異なることは何もなかった。
ところが船団に不幸が襲う。
大坂に向かった当初は好天で海も穏やかだったが、大坂を出て笠岡諸島最南端の六島沖に至った時、突如として暴風雨と大時化に遭遇したのだ。
その時、たまたま近くを通り掛かった尾州廻船が、白丸の中に丸の字が描かれた帆を張る丸尾屋の四隻を見つけたが、最も大きな船が何らかの支障を来したらしく、帆を下ろして「つかし」を行っていたという。
「つかし」とは、航行もままならないほどの暴風に出遭った時、帆を下げて「垂らし(錨)」を下ろし、丈夫な船首を風上に向けて暴風が去るのを待つという暴風圏での対処法のことだ。
尾州廻船によると、「つかし」を行う大型船を取り巻くようにしていた三隻は、しばらくすると、どこかに難を逃れるべく去っていき、大型船の方も見えなくなったという。
この知らせは、早朝から沖に出ていた塩飽の漁船が尾州廻船から知らされたもので、尾州廻船はそのまま目的地に向かったので、それ以上、詳しいことは分からなかった。
<次回は11月15日(木)更新です>
ここでしか読めない、物語がある。
伊東潤がお届けするメールマガジン『歴史奉行通信 』
作品の舞台裏などを毎月第1、3水曜日にお届けしています。ぜひご登録を。
伊東潤 ツイッターはこちら