写真一枚で氣志團に決めた
—— ABEDONさんは90年代後半からプロデューサーとして本格的に活動を始めるようになります。そこにはどんな思いがあったんでしょうか?
ABEDON 僕は10年ごとに区切って目標を決めてきたんですけど、30代はバンドを一つ成功させようと考えたんです。というのも、いろいろあって、ユニコーンに感謝ができるようになったんですね。フェラーリも買えたし、女の子にもモテたし、美味しいものも食べられた。いい思いをしたわけですよ。だから、20代の時にこんなに面白かったということを、今度は誰かに体験させなきゃいけない。そこにユニコーンイズムというか、自分の考えを入れて、反応させて成功させるということをしようと思った。
—— なかでも氣志團のデビューに携わったのは大きかったと思います。
ABEDON それはね、なんか面白いものないかなってアンテナを張っていたら、うちのベランダにアー写が送られてきたんです。「これだ!」って、音を聴きもせずに決めた(笑)。
—— どういうところに可能性を感じたんですか?
ABEDON とにかくアー写で決めたんですよ。そこから出てくるバイブスっていうの?(笑)。
斎藤有太(以下、斎藤) ははははは! そういうところは直感的なんだね。
ABEDON 僕には有太くんと共通しているところがあって。僕たち、暴走族年代なんですよ。しかも僕は「なめ猫」に関わってるんです。
—— なるほど! いわば氣志團の元ネタをやっていた。
ABEDON だからまあ、言ってみれば後輩なんです。
生き残るためにはグレるしかなかった
—— 斎藤さんも暴走族年代ということですが、10代の頃はどんな感じだったんですか?
斎藤 僕は東京の多摩地区で育ったんですけど、所謂ベッドタウンでとにかく子供の数が多いんです。新興住宅地なんかも多くて昔ながらの地域社会とはちょっと違う。そうすると人間関係がだんだん殺伐としてくるんですよ。
—— 人間関係が殺伐としてきた、というのは?
斎藤 はっきり覚えているのは、中2の時に理由はわかんないけど、部活の仲間と上手く行かなくなったんです。その時はその世界が自分の全てだったからすっかり自分も人も分からなくなっちゃった。その内学校も行かなくなって、夜に一人でゲームセンター行ったり、そこにいる仲間や先輩たちと遊ぶ時間が増えて。そうしたらもう完全にドロップアウト。世間で言うところのグレてる状態。でも、音楽はずっと好きでしたね。子供の頃最初に始めたのがエレクトーンで次がピアノで、ロックを好きになって、バンドをやりたいと思ったのも小学校の時だったから。
—— その後はどんな感じだったんですか?
斎藤 高校にも一応受験して入ったんですよ。そこに暴走族の先輩がいて、「狂命会」っていうバンドをやっている、キーボードを探してるって。そこに入れてもらったんです。でもその後は学校も辞めて、人間としてどんどんダメになっていって、人を騙したり嘘をついたり平気でしてた。悲しい時代です。ただ、そのバンドの人達との時間はすごく楽しかった。そこが唯一の自分の居場所だったから。その頃からこのバンドでプロになりたいな、音楽しかもうないなって思ってた。そんな感じでしたね。
ABEDON まあ、若いときはぶつかるもんなんですよ。上手に生きられないというか、世の中に適応できないというか。普通の職業じゃダメだったんです。「俺たち、音楽がなかったら、何になってたんだろう?」ってみんなよく話すんですけれど。
斎藤有太 ニューアルバム「The Band Goes On」(ダラシナレコード/Sony Music Artists)
イロモノ扱いされず長く続くバンドになるにはどうすべきか
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