ユカ 33歳
(アカウント:人妻の美香
「結婚4年目セックスレス人妻。DM解放しています」)
寂しさは刺すように一瞬なのに、信じられないくらい体の奥深くまで到達してしまう。だから、その瞬間目を閉じ、ぐっと喉に力をいれてやり過ごす。けれど、これが時たまではなく毎晩のことなのだから、やっぱり飲み下しづらい日はあって、そんな日は適当な理由をつけてお酒でも飲みに出かけたい。
でも、知り合いをむやみに誘うと寂しい人だと思われそうだし、人生がうまくいっていないことを自らアピールするようで抵抗がある。ラインのやたら目に悪そうな緑色の画面にあらわれる「友達」を上から下までスクロールしても「この人」なんて思える人はいやしなくて、結局画面を閉じるんだよね。友達ってなんだっけ。
旦那とうまくいっていないわけじゃない。人材派遣会社の社長をしている旦那は、帰りが遅くなることが日常茶飯事。朝帰りもざら。それを承知で結婚したのは私だ。最初は旦那がいない分、自由な時間が取れると思って嬉しかった。夜ご飯を食べたら、動画コンテンツの観放題サービスをポチポチと起動するのが私の日課でSATCもフレンズも24もラストシーズンまできっちりとコンプリートした。
旦那の不在を憂い、遅い帰宅を責めるような女をちょっと前まで心から軽蔑していた。旦那のお給料で暮らしているくせに、仕事に理解を示さずに、早く家に帰ってくることを強いるなんて、どうしてそんなに我儘になれるんだろうと。自分の寂しさくらい自分で決着をつけて、笑顔で遅くまで働いてきた旦那を労うのが妻としての役目なはずだ。
結婚して1年はそう思えた。けれどいつの間にか、一人で家にいる時間、発作のように寂しさに襲われるようになってしまった。20時くらいに自分のためだけの簡単な夕食を食べ終え、21時くらいまで片付けや掃除をする。その後くるのが魔の22時。その時間帯が一番苦しい。約束なんて何もないのに、外に出たくてうずうずする。服を変えてメイクして、誰かに会いに出かけたい。外の風をあびたい。
そうしたら今日といういつもと同じただの一日は、少しだけ良いものに変わるんじゃないか。そんな風に何度も思って、やたら携帯を触ってしまう。突然の誘いなどしてくれる友人はいないのに。夜から開く街の代表格ともいえる西麻布まではタクシーで行けばワンメーター。けれど、約束のない西麻布は、まるでネバーランドのように遠く、まぼろしじみている。先週の土曜日、表参道のカフェで。
「私、最近、出会い系アプリ使ってるよ」
オレンジジュースとアイスティーを二層にした飲み物を両手で抱えて、美香が言った。明るい日差し。窓の外にはチラチラと光を浴びた新緑が揺らぐ。
「え、あぶなくない?」
「全然あぶなくなんてないよー。そもそも、一線は越えないし」
一線を越えるとはどういうことかと聞くと美香は笑って「会ったりはしない」と言った。
「不倫ごっこよ、不倫ごっこ。本当に不倫する気はなくて、でも気分を味わってみたいだけ」
日差しが横からあたっている美香の顔には、パーツにそって深い影が出来ていて、33歳という年齢は、頬の横のほうれい線にもしっかりと刻まれている。けれど、シルバーのネイルを綺麗に施した美香のつやつやとした爪は女としてまだ現役なことを示している。目線を自分の手元に落とすと、手入れをしていないすっぴんの爪。親指の先が少し荒れている。
「会わないけど、メッセージのやりとりはするの?」
「そう」
「意味はないけど、顔写真登録しておいて『いいね』がたくさんきてると安心するんだよね。まだ女として終わってない気がして」
美香はそう言って少し照れるように笑った。
「向こうから会おうとは言われない?」
「言われるよ。でも予定が合わないことにしてかわす。そこでメッセージ止めちゃえばいいし」
要するにモテを味わいたいんだよね、と美香は長い髪をかき上げた。
くっきりとした二重線に、グラデーションがまるで雑誌のメイクページの見本のように施された印象的な目元。メイクがいらないくらいナチュラルに整った眉毛。清潔感のある綺麗な歯並び。お世辞でもなんでもなく、美香は美人だ。同性なのにうっとり見とれてしまう時がある。こんな美人でも、女として自信がなくなる夜があるなんて信じがたい。
「ユカもさ、たぶん、今女としての自信を失っているだけなんだよ」
そうかもしれない。
この1年ろくに飲みにも行っておらず、行くとしても美香とのガールズナイトだけ。男性に女として品定めされるような場所に行くのは出来るだけ避けてきた。人妻がそういう場所に行くことへの心理的抵抗もあるけれど、単純に男女混合の飲みに行っても、ターゲットにならないのはつまらない。そんな場所で次につながらない出会いを増やしたり気を遣ったりするよりは、家で気楽に海外ドラマでも見ながら、枝豆をつまんでいたほうがマシだ……そう思っていた。ちょっと前までは。
今は、気をつかってもいいから飲み会にも行ってみたいとは思うものの、いざとなると誘ってくれるような人はいなくて、ああ、私は、そういうメンバーから外れたのだと実感する。当たり前だ。家庭のある女には気を遣うのが当然のマナーだ。
美香は、つむじから髪の先まで手を滑り下ろすように自分の髪をなでて笑った。
「ちょっとモテ気分を味わえば、寂しさって意外と埋まるよ。ネットのなんでもない出会いだって意外とあたたかいものだよ。」
その言葉が頭の中に余韻を持って残っていた。
そして一週間後、いつもの一人の夜に、とうとう私はツイッターで裏アカウントというものを作ってしまったのだ。本名でやっているツイッターもあるけれど、それとは別の適当な文字列のIDで、ネットで拾った韓国のアイドルの写真をアイコンに設定したら、そこに私の分身が出来た気がした。
出会い系アプリに登録するのではなく、匿名アカウントを作ったのは、万が一にでもアプリの中で夫の知り合いに、私のプロフィールが表示されてばれるのが怖かったからだ。ばれたとしても適当な嘘で切り抜けられるとは思ったけれど、あんまりいいことにはならないだろう。夫婦の間に嘘は少ないほうがいい。旦那はツイッターをやっていないので、ばれることはない。
アカウントは電話番号を登録したらすぐに作れた。拍子抜けするほどあっさりと産まれた、裏の私。
プロフィール欄は、どんな嘘を散りばめようか迷った挙げ句「結婚4年目セックスレス人妻」と書いてみた。架空なのだから突飛なプロフィールにしても良さそうなものだけど、自分からあまりに遠い生活の人は、なかなか思い浮かばないものだ。
正確には旦那とは結婚3年目だけれど、現実とは微妙にずらして架空の設定をつくる。セックスレスは本当だ。もう3か月そういうことが無い。セックスレスの定義は確か一ヶ月からだったと思う。
結婚4年目、セックスレス人妻……美香です。
名前は何でもよかったのだけれど、数日前に会った美香の顔がふと思い浮かび、本名のユカに似た響きでもあるから、美香にした。
次回は11月5日公開予定です
デザイン/写真 延原ユウキ